年を経てねじくれたオリーブやブドウの茂る小さな園がありました。月光が園に咲く色とりどりの花を透明な蒼い風景に変えて浮かび上がらせます。花薫る園の間に細い道が続いています。道は袋小路になっていて、行く手を崖が立ち塞ぎます。崖の中腹にうがたれた二つの大きな洞窟がまるで眼窩のようです。
頭蓋骨の丘。
ゴルゴダ。
――あの丘の上で、主は人の罪を贖われた。
ミカエルの脳裏に三日前の風景が過ぎります。
――太陽は光を失い、世界は闇に閉ざされ、風が嘆きの声を上げ、落鳴は轟き、稲妻の閃光に十字架の影が浮かび上がり、そして、また闇の中に消え……。
ミカエルは首を振りました。
そして、崖の左手、園よりも一段低くなったあたりの崖が平らに削られています。窓のように穿たれた小さな四角い穴の横に、車輪のような丸い平べったい石が扉のように立てられています。その両脇には、ローマの衛兵が二人立っています。
「あの奥に、イエスさんいるんだ」
ルシフェルが小声で云います。
「さ、行くわよ」
「うん」
二人は静かに崖を降ります。
そして、太いオリーブの木の陰に身を隠し、そっと様子をうかがいます。
「どうする。やっつけちゃおうか」
何となくワクワクした声でルシフェルが囁きます。
「いいから私に任せなさい」
ミカエルは音も立てずに木陰から躍り出ました。
月光とは違う稲妻のような閃光が走り、白い衣が雪のように白く輝いて園を照らしました。
「誰……」
衛兵の誰何は途中で途切れました。
ミカエルの姿を見た途端、衛兵は死人のようになって倒れてしまったのです。
「ミカねえちゃん、凄い、凄い。ブリング・デーモンってやつだね」
「あんた、誉めてるの、貶してるの」
目をまん丸にして手を叩いているルシフェルにミカエルが云いました。
「誉めてんだよ。地獄にだってこんなに上手に人間を生殺しに出来る子いないもん。すごいなあ」
「な、生殺し……」
ミカエルはものすごく嫌なものをみるように倒れている番人達を見下ろします。
「こんなに上手に人間の心の底の底までがちがちに凍てつかせるせる事なんて、そう簡単にはできないよ。普通ならこうなる前に死んじゃうか狂っちゃうもん。ねえ、お姉ちゃん、いっそ下でお仕事したら。きっとみんなから尊敬されるよ」
「って、訳分かんない事云ってないで、さっさとイエス様の亡骸探してきてよ」
なんだか頭が痛くなってきたミカエルは、この世界の物理法則をうっかり忘れたまま、ひょいっと墓の前の石を横に退けようとしました。
みぎぃ。
嫌な音がしました。
音のした場所にはもう石はありません。光よりも早くはじけ飛んだのです。
まずいっ。
ミカエルは石の飛ぶ方向と反対に力を加えます。
ぴんっ。
石が柔らかなおもちのように両側からひしゃげます。その表面が水面のように一瞬ゆらめき、そのさざ波は光よりも早く石の表面を伝い、端まで来るなり石を離れ、大気を震わせ、空と大地を果てしなく広がって、やがてこの世の最初の光も追い越して、無限の彼方へ消えてゆきました。
ごづづっ。
次の瞬間、すこし離れた場所に石がものすごい勢いでめりこみます。地面が波を打ってゆれました。
その揺れが遠ざかると、何事もなかったように静寂が訪れました。
ミカエルは、位こそ下位の大天使ですが、その本来の能力は熾天使を超えると云われています。人間の世界に頻繁に行き来するためにはその力があまりに大きすぎるので、それを押さえるために、あえて大天使の位を持っているのです。それでも、うっかりすると、今のように簡単にこの世界の限界を超えてしまうのです。
「ミカ姉ちゃん」
びくり。
ミカエルは肩をすくめました。
「な、なによ、ルシフェル」
ルシフェルの目が悪戯っ子のように輝いています。
「消えちゃうとこ、だったね」
「え」
ミカエルは違う方向を見据えながら、造り物のようなあどけない笑みを浮かべます。
「だから、無くなっちゃうとこだったね、地球」
ルシフェルの目の輝きが増してゆきます。
「な、なんのこと」
目をのの字にしたミカエルの額にうっすらと汗が浮かびます。
「あたしは見ちゃったもん」
「だから、何を」
「あの石、自分と重なりそうになったでしょ」
「あら、そうだったかしら」
「うっかり、光よりも早く投げちゃったでしょ。でも、光より速い物なんて無いんだから、自分の過去と重なって無くなっちゃう所だった。そうなったら、大変な事になったでしょ」
「そ……そうでもないわよ」
「うそ。ここの物が消えると、ここに居るための力がみんな外に出るから、その力でこの星なんて簡単に消えちゃう」
「まさか」
「ミカねーちゃん、地球壊しそうになった!」
「だ、だから」
「へへへーん!みーちゃった、みーちゃった。かーみさまに云ってやろー」
ルシフェルは遙か東方の島国の未だ生まれぬ旋律でよく分からない唄を歌います。
「う、うるさいっ。黙って。黙ってってば。あ、それより」
ミカエルは大げさに両手を胸の前で合わせます。それから、ずいっと洞窟の入口を指さしました。
「イエス様!」
「あ、そうだ」
ルシフェルが唄うのを止めます。
「早く行かないとね。だって、あの方、待っているから」
「え」
ルシフェルがちょっといぶかしげにミカエルを見返します。
「あなたを、待っているわ」
「あたしを?」
――かかったわね。
ルシフェルの顔に困惑の表情が浮かぶのをみて、ミカエルはほくそ笑みます。
「そう、あの方はあなたが来るのを待っている」
ミカエルは大きく頷きながら答えます。
「本当?」
そわそわとルシフェルが問いを重ねます。
「もちろんよ」
「そ、そうかな」
「あの方は、復活の場所にあなたが来るのを待っている」
「で、でも、怒ってないかな」
「もちろんよ」
ミカエルはここぞとばかりに、天使のほほえみを顔全体に浮かべます。
「あの方の旅は、あなたと共に始まった。だから、あの方は待っている。あなたと共に旅を終えるのを望んでいる」
「そ、そうだね。そうだよね」
ルシフェルは何度も頷きます。
「んじゃ、あたし見てくるね」
それから、ミカエルにくるりと背を向け墓の方へ駆けて行きました。
――ふう。危ない、危ない。何とか誤魔化せた。
ミカエルは、そっと額の冷や汗をぬぐいます。
――まったく、あんなマヌケな失敗、天界でいい触らされでもしたら、時の終わりまでの恥だもの。でも、まあ、所詮はお子ちゃま堕天使ね。この大天使ミカエルに係ったらチョロいもんだわ。
口元が緩みかけ、それから、急に気が付きます。
――……って、これじゃ私の方が悪魔みたいじゃないっ!
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©Yuichi Furuya 2005,2006