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ルシフェルによる福音書

復活 その1

 空がゆっくりと白みはじめました。
「早くしなさい」
「待ってよ」
 不思議な二人連れが、ゆるやかな坂道を登って来ました。固く青白い岩の丘です。細い道の両側には、あちらにぽつり、こちらにぽつりと、黒い影のように茨の藪が茂っています。
「もう少しだから」
 背の高い人が振り返りました。
 肩から垂らすように白いゆったりとした衣を着ていました。薄暗い東雲の微かな光の下でさえ真昼の太陽の輝きを放つ真っ白な衣です。
 歩くたびに長い髪が揺れています。金色の長い髪です。黄金の輝きを放ち、波打つように揺れる髪の下から、きりりと引き締まった顔がのぞいています。凛々しい女性とも、美しい男性とも見える顔立ちです。けれど、その面には深い苦渋が浮かんでおりました。
 その後ろから、何とも愛らしい女の子がついてきます。女の子は、地の底の濃密な暗黒で染め上げたような漆黒の服を纏っています。少し大きめの服は緩やかに波うちながら腰のところで黒い帯にまとめられ、広がる裾が膝小僧のちょっと下まで垂れ、その下に革のサンダルを履いた華奢な足がのぞいています。肩から広がる袖は肘の辺りで大きくまくられ、そこからすんと伸びた細い腕が、不似合いなごっついシャベルを抱えています。
 黒い短めの髪が歩くたびに揺れています。冬の新月の一番暗い透明な闇を紡いだような黒髪です。その間から、悪戯っ子のような愛らしい顔が覗いています。なめらかな肌の色のなんと白いことでしょう。前を行く背の高い人の肌が光が光を重ねて出来た朝の白さであるなら、この女の子の肌の色は、星々の光を集めてぎゅっと凍らせた新月の雪のような静かな白でした。
「急ぎなさい。置いてくわよ、ルシフェル」
 背の高い人が澄んだ声で言いました。
「ミカ姉ちゃんの莫迦。自分は何にも持ってないくせに」
 天より堕ちし宵の明星、堕天使ルシフェルでした。
「知らないわよ。大体、何だってそんなでっかい鋤なんか持ってるのよ」
 背の高い人は、大天使のミカエルです。
「だって、墓荒らしには必需品だよ」
「違う、墓荒らしじゃない!」
 ミカエルがヒステリックに叫びます。
「だって、お墓を暴くんでしょ」
「違う、違う、全然違う!私たちは、イエス様の復活の準備に行くんでしょ!」
 ミカエルは立ち止まりました。
「大体ね、誰の所為でこんなややこしい事になったと思ってるのよ」
「だって、本気で死んじゃうと思わなかったんだもん」
 ちょっと口をとんがらかしてルシフェルが応えます。
「本気って、あんた」
「冗談だと思ったんだもん」
「何で神の一人子がそんな冗談云うのよ!」
「でも、でも、そんだったら、おねーちゃん達が助けてあげれば良かったんだよ。イエスさんだって『エリ エリ ラマ サバクタニ』て云ったじゃないか」
「だからあんたは間抜けだって云うのよ。動き出した歴史ってのは迂闊に手を出したらとんでもないことになるのよ。まして、預言の成就の際にはね。あんたとあの莫迦ヘビが昔しでかした事をよく思い出す事ね」
「莫迦、意地悪。あれはあれでいいって神様も云ったじゃないか」
 ルシフェルはぷぅっと頬を膨らましました。
「だーかーらー、預言に記された歴史は動き出したら手が出せないんだって云ってるの。時が来た以上、あの方は贖罪をして天に帰らなければならない、それがどんな間抜けな理由でもね」
 ミカエルはルシフェルのふくれっ面に人差し指を突きつけて云い返します。
「物事って云うのは起こった時点で、それが必然的な歴史として時空連続体に刻まれてしまうの。問題は、その歴史の流れの引き金を誰が何時引くかなのよ。そして、いつも、誰も予期しない時に、最悪のタイミングで、その引き金を引くのがあんたなのよ。この躓きの小石!」
「あたし、躓きの石じゃないもん。あたしが石に躓いたんだもん」
 それは本当のことでした。ルシフェルだって、食事中にイエスの頭から香油をかけるつもりは全然なかったのです。使従の一人、マグダラのマリアとしてイエスと行動を共にしていたルシフェルは、食事を取っていたイエスに香油をちょっと塗ってあげようとして、足下の石に躓いたのです。壺は頭の上で見事にひっくり返り、イエスはすっかり香油まみれになってしまいました。弟子達はルシフェルを罵りました。するとイエスは弟子達を制止するように「なぜこの女を困らせるのか。この女は私に出来る限りのことをしてくれたのだ。すなわち、私の体に油をそそぎ、あらかじめ葬りの用意をしてくれたのだ」と静かに云ったのです。イエスは、それを己の人としての時の終わりのしるしとしたのです。
「イエスさんはちゃんと許してくれたもん」
「それじゃ聞くけど、何だって食事の席にあんなもの持ってきたのよ」
「え、それは……」
 ルシフェルは答えに詰まりました。
「あんたがどんなつもりであの壺持ってきたのか、私に解らないとでも思ってたの」
 ミカエルの言葉に、ルシフェルは困ったように下を向きました。
 実はあの香油は、結婚したばかりの夫婦なんかが寝る前につけるちょっと大人の香りのする油だったのです。この油を塗りつけたら、イエスさんはどんな顔するだろう。そんな悪戯心で、わざわざ部屋の奥から香油の壺を持ってきたのです。莫迦なことをした。ルシフェルも内心はその事を後悔していました。
「まあ、過ぎたことを云ってもしかないわね。とにかく、墓に急ぎましょう」
 急にしょんぼりとしてしまったルシフェルを見て、ミカエルは困ったように云いました。
「ん」
「大丈夫よ。遅かれ早かれこうなる予定だったんだから。問題は、その後の復活の準備が全然整ってないことなの。これでイエス様が復活し損ねたら、そっちの方が大変だわ。さあ、元気出して行きましょう」
「うん」
 ルシフェルは俯いていた顔を上げました。そしてちょっと照れたようにはにかみます。
 ルシフェルの顔に笑顔が戻るのを見て、ミカエルもなんだかホッとしたような暖かな気持ちになりました。
――でも、これって……天使の誘惑?
 ミカエルは頭に浮かんだその言葉を消し去るように、二、三度、頭を振りました。

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©Yuichi Furuya 2005

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