今島津を覆う影

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四章 求尻者


 私のお尻に誰かの手が触れていた。

 温かい手。

 目の前の痴漢とは明らかに違う、不思議な安心感。

「振り返らずに。そのまま列車を降りなさい」

 優しいけれど、きっぱりとした意思を持った声だった。

 その声に押されるように、私と貴子は一歩前に出る。けれど、すぐ目の前には、あの痴漢が立ちふさがっている。二歩目が踏み出せない。

「進みなさい」

 力強い言葉が、私たちの尻を押す。精神的にも、物理的にも。

 痴漢が横に避ける。その視線は、肩越しに後ろの誰かを睨み付けていた。けれど、その瞳には、怒りよりもおびえの色が見えた。

「大丈夫、あなた達のお尻は、まだ彼らの手には落ちていない」

「匹夫様」

 貴子がうれしそうな声をあげる。

「まだです。駅から出るまで振り返らずに」

 ドアの前の数人の男も道を空ける。

 周囲の無言の視線をひしひしと感じながら、私たちはホームに降り立つ。

 人気のないホーム。

 甲高い出発のベル。

 ドアの閉まる音。

 きしむ車体。

 そして、電車はどちらへ向かって……。

「だめです。今は前を見なさい」

 私の心を見透かすように声がする。

 私は終着駅の先に向かう電車から意識を反らす。

「そう、それでいい」

 今はこの後ろの男に従った方がよさそうだ。

 私は、構内を見回す。

 土曜の午後とはといえ、あまりに人気のない駅。

 駅員が、通る者のない改札の窓口でぼんやりと立っている。

 そう、誰も居ない改札。

 乗る人も、降りる人も。

 終着駅なのに!。

「だめですよ」

 男が柔らかく囁く。

 そうだ、今はここから出ることを考えよう。

「さあ、そのまま改札を抜けなさい。切符はその箱に置くだけでいい」

「あ、でも、私たち」

 そこで隣駅までしか切符を買っていなかったことに気づく。電車に乗る前、どこまで行くのか貴子に尋ねたが、匹夫様が現れるまで、という無責任な答えが返ってきたので、とりあえず一駅分だけ買って、あとは降りるときに精算する事にしていたのだ。

「大丈夫」

 また、声がする。私の思考が、触れている手のひらから後ろの男に流れ込んでいるように。こうなれば、この背後の匹夫様とやらを信じるしかない。

 おずおずと切符を出す。

 駅員はちらりと置かれた切符を見下ろす。

「止まらずに」

 駅員が口を開く前に、匹夫様がきっぱりと云った。その言葉は、私たちにささやいたというよりは、駅員に向けられていた。

 駅員は固まったまま動かない。

 私たちはゆっくりと駅を後にする。

 背後から私たちを止める声は聞こえない。

 閑散とした駅前広場だった。

 客待ちのタクシーさえいない。

 ロータリーの内側は、噴水を取り囲む広場になっている。

「水清くして今島津」

 無闇に大きく安っぽいビニールの垂れ幕に、いろんな意味でこの町にぴったりなチャッチコピーが、太い丸ゴチックで書かれていた。

 噴水には、抽象芸術なのだろうか、六段重ねの鏡餅というか、崩れかけた饅頭の山というか、いびつな球体がいくつも重なったオブジェがあった。その一番上から、申し訳程度に水が滴り、緑とも黒ともいえない澱んだ池に流れ込んでいた。

 その池からだろうか、喉の奥を引っ掻くような不快を伴うあまったるい匂いがする。

 何だろう、これ、どこかで嗅いだことがある臭い。あ、そうだ、この臭いって……。

「その先の店へ」

 私の思考を遮るように、声がする。

 私は、通りの向こうへ視線を移す。車も通らない、無意味に広い通りの向こうには、くすんだ灰色のビジネスホテル。交差点の向かいは、食事と土産の看板も色褪せたレストラン。あとは、小さな店が続く。そんな寂れた駅前の商店街に、異質なこぎれいな新しい店舗が目に入る。

 この地方にも出店し始めた新しいコンビニだ。

 ガラス越しに、不必要なほど明るい店内が見えた。

 整然と並んだ商品。

 うちの隣だろうが、東京のど真ん中だろうが、へたをすれば海外だろうが、変わることのない店内のイメージ。最近増え始めたお店。

「いらっしゃいませ」

 マニュアル通りの挨拶。

 青っぽい制服の店員の気のない声に、なぜか不思議とほっとする。

「さあ、ここまでくれば大丈夫」

 背後からかけられた言葉で、針金で括られたような緊張が解ける。

 そして、気が付く。

「ちょっと、いつまで触ってるのっ」

 私は声を上げる。

 列車の中から今の今まで、ずっとお尻に手が当てられていた事に、今更ながらに気が付いたのだ。

「ああ、これは失礼」

 お尻から手が外れる。

 そのとたん、足から力が抜け、へなへなとその場にへたり込む。怖かったのだ。異様な車内。粘り着く視線。降りない乗客。そして、終着駅の先へと進む列車。今島津。

 ここへ辿り着くまでに、私たちは何度悲鳴を上げていたことだろう。恐怖で竦んでその場にうずくまっていたかもしれない。そして、列車から降りることもできないままに、どことも知れない場所に連れて行かれていたかも知れないのだ、この人がいなければ。

 この人は、文字通り、尻をたたいてここまで連れてきてくれたのだ。

 私は改めて男を見上げた。

 長身痩躯の男。肩まで届く長い髪。そげ落ちた頬に、伸びた髭。よれよれの丁シャツに、くたびれたジーンズ。素足にサンダルを履いている。これで頭にバンダナでも巻いていたら一昔前のヒッピーだ。

 だが、無精そのものの風貌には、不思議と不潔感は感じなかった。派手さのない落ち着いた雰囲気は、その端正な細面と相まって、むしろキリストさえ連想させる。

「人の心は」

 男は私を見下ろして口を開いた。

「人の心は尻に表れます。あなたの尻は豊かですが、少々好奇心が過ぎるようですね」

 いや、単なる痴漢かもしれない。

「ひ、人のお尻のことはどーでもいいでしょ。だいたい、あんた何者なの」

 私は無理に語気を強める。

「ああ、あなたの尻と会うのはこれが初めてでしたね。初めまして、私は匹夫勇。理想の尻を求め旅を続けている者です」

「は、はあ。理想のお尻……、お尻が好きなんですか」

 穏やかな口調につられて、言葉を改めながら、間の抜けた質問をする。

「どうでしょうね。旅の途中で尻が好きだという者にも会いますが、どうも彼らとは違うようです」

 その問いに、男は真顔で言葉を返す。

「違う」

 何が違うのだろう。

「はい。はじめの頃は、そうした者と語ることで、理想の尻の情報が得られるのではないか、そう考えていたのです。けれど」

「けれど」

「彼らには尻に対する愛が欠けていた」

「愛」

「そうです。彼らが見ているのは、尻ではなく、その尻を持っている人間です。だが、彼らは、その人間を愛しているわけでもありません」

 それは確かだ。痴漢は別に恋人の尻を触る訳じゃない。

「彼らは尻を好きだと云いながら、尻を愛しているわけでも、人を愛しているわけでもありません。だから、彼らの尻は醜い。愛のない尻は欲望に汚れている」

 いや、間違ってはいないかもしれないが。

「『汝の尻を知れ』」

 匹夫様は高らかに云った。

「かつてデルフォイのディオニソス神殿に刻まれていた言葉です。人は、己を知り、己の尻を知らなくてはなりません。けれど、汝の尻を隣人の尻と比べてはなりません。他人と比べるのではなく、己自身の過去と比べなさい。昨日より今日、今日よりも明日、自分の尻がどれだけ輝きを増しているかに気を配りなさい。人は、よき尻ではなく、よりよき尻となるように行動しなければならないのです」

 なにか根本的に違う気がするその言葉も、匹夫様の口から漏れると妙な説得力があった。

 いや、違う。なんか違う。

 私は頭を振る。

 説得力はあるのだろうが、どこか根本のところがずれている。というか、もしかして、ここは笑うところなのだろうか。

 どうリアクションしたものか考えあぐねた、その時だった。

「あ、あの、もしかして、あなたたち外の人?」

 カウンターから店員の声がした。


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