五章 店員
カウンターの奥に、青い制服の若い女性が立っていた。コンビニの店員だ。高校生か、もう少し上だろうか、まだ女の子と呼んでいい年頃のショートヘアーの女性だった。本来なら溌剌とした元気娘といった目鼻のくっきりとした意志の強そうな顔立ちだが、どこか疲れたような影があった。
「ねえ、外の人でしょ」
どこか、すがるような声。
私は返事に困った。「外の人」というのが何のことか、直ぐには解らなかったのだ。
「外から来た人たち……なんでしょ」
店員は、怯える声で問いを重ねる。
「あ、ああ。そう、だけど」
私は、質問の意味に気づいて、あわてて答える。
「よかった」
店員の顔に安堵の表情が浮かんで、そして、不安の中に消える。
「それで、なんでここに来たの」
「なんで、って」
私はちらりと後ろの男を見る。まさか、痴漢を探しているうちにここまで来てしまった、とも云えない。
「帰った方がいいよ」
低い啜るような声だった。まるで、周りの人に聞かれるのを怖がるように。
「え」
「用がないなら、早く帰った方がいい」
「どういうこと」
私の問いかけを待っていたかのように、店員さんは堰を切ったように話しだした。
彼女がここに来たのは、一月ほど前だという。
「はじめは割のいいアルバイトだと思ったんだけど」
ここに来た理由はただ一つ、バイトの待遇だった。勤務は平日の昼間だけで残業はなし、時給は、他の店なら深夜並み。店の二階はコンビニのオーナーが家主のアパートになっていて、社宅というか寮というか、兎に角、敷金・礼金なしの月一万五千円という破格の家賃で借りられた。それまで住んでいたアパートの家賃を滞納し、明日にでも追い出されようとしていた彼女にとって、それは渡りに舟の条件だったという。この好条件の募集は、大手の新聞や就職情報誌ではなく「阿寒自治新聞」というミニコミ紙の片隅にひっそりと載っていた。
近隣の出身者では無かったので、今島津の店舗であることは全く気にしなかったという。
店の仕事は楽だった。コンビニでのバイトの経験もあり、マニュアル通りにこなしていれば、難しいことは何もなかった。混み合うことも、ややこしい注文をつける客もいなかった。
それなのに、一週間も経たないうちに何もかも嫌になったのだという。
「だって、この一月、他の人と話したのって、オーナーだけだもん。それも、」
オーナーは週に一度、売り上げ金を取りに隣町から来るのだという。あとは、彼女と地元のアルバイトだけ。そのバイト仲間ともほとんど会話が無かった。勤務はほとんど一人。地元のアルバイトは早朝と深夜、それに昼の数時間、昼休みの交代のために2時間ほど来るだけ。釣り銭が千円ほど足らなかった事もあったが、引き継ぎの時にそれを報告しても、相手はもごもごと口の中で呟いて、軽く頷いたきりだったという。客とのやりとりもほとんど無かった。というより、彼女が店に出ている間、滅多に客が来ないのだという。朝、彼女が店に出る頃に数人の客が店を後にして、夕刻、彼女が帰るのを待つかのように、また、人が集まるのだという。
「まるで、私を避けてるみたいに。ううん、ここだけじゃなくて、なんかこの町全体が、私を避けてる、私から逃げてる見たいな」
はじめは物珍しくて、あちこちぶらぶらしてみた。けれど、時折見かける町の人の軽蔑とも憎悪ともしれない嫌な視線。寂れた、というより、はじめから誰もいなかったような人の気配の欠けた商店街。そして、どこにいても流れてくる微かに甘酸っぱい臭い。出歩けば出歩くほど、何もかも嫌になってきたという。それで、来て一週間たった頃からはほとんど外には出なかった。
生活必需品は、コンビニで十分だった。オーナーは鷹揚な人物だったらしく、賞味期限切れの弁当を貰えたので、買い出しに行く必要もなかったのだ。勤務が終わると、弁当や惣菜を貰い、飲み物を買って部屋に戻る。そして、次の日の勤務時間が始まるまで部屋に籠もる、そんな毎日だったという。
「正直、店に行くのも嫌だったんだ。なんか、地元のバイトの人とも馴染めなかったし、私が勤務時間以外に店に来るのを疎ましがってるみたいだったから。そう、あれは働き始めたばかりの頃なんだけど、ジュース買い忘れて、夜遅くに、お店に買いに行ったの」
店員はそこで言葉を切った。それから、おそるおそる続きを語り始める。
「でね、入った瞬間に、おかしいなって思ったの。普通に電気が点いてるのに暗いの、お店の中が。なんか薄暗くて、店の隅や棚の横に、真っ黒な闇がもやもやってある、そんな感じ。で、その暗がりに群がるみたいに、何人かの客がいた。その人たちが、私が店に入った瞬間に、一斉にこっちを振り返ったの。まるで私が入ってはいけない場所に来たみたいに。でも、誰も何も言わなかった」
店員はちょっと視線を落とした。
「だって……だって、みんな食べてたから。よく分からない、ぶよぶよした薄赤い……」
ドアチャイムが鳴った。
私たちは入り口を振り返る。
ガラスのドアが揺れていた。
いない。
店内には人影はない。
ゆっくりとドアが閉まる。
「誰か入って来た?」
私は確かめるように呟く。
「え?でも、誰もいないよ。出て行ったんだよ」
貴子が店内を見回して、さらりと答える。
「だって、それじゃ……今まで、誰か居たって……こと?」
私は、口に出してから自分の言葉にぞっとした。
棚の隅に、つい今し方まで、何かが息を殺して潜んでいる姿を想像して。
「聞かれたかな、今の話」
よそ者が集まって町の悪口を云っているのを。
「い、いやっ」
突然、店員が叫けんだ。
「もういや。こんな所、もういやよ」
「あ、あのさ。そんなに嫌なら、いっそやめちゃったら」
どうなだめていいか解らずに、とりあえず、言葉をかける。
「無理よ」
「無理って」
「だめ。できない」
「なんで。仕事、辞めたくないの」
「違う。辞められるんなら、いつでも辞めたいわよ、こんな所」
「そんなら、どうして。借金があるとか」
「違う、違う。全然違う」
「じゃあ、なんで」
「だって」
店員の言葉が途切れる。それから、ゆっくりと言葉を続ける。
「だって、私、もう、この町から出してもらえないんだもん」
「どういう、事」
聞きながら、私はその答えを聞きたくなかった。
「だから、私、この街から出ることができないの。この前の休みの日に阿寒に行こうとしたの。別の仕事見つけて、ここ辞めるつもりだったから。でも、この町から一歩も出られなかったの」
「だって、電車もバスもあるでしょ」
「切符売ってくれないのよ」
私は、無表情な駅員の顔を思い出した。
「で、でも、あれって国鉄だか阿寒鉄道だかの窓口でしょ。そんな無茶するなら、本社の方へ文句の電話掛ければいい。あ、それより、家族か友達に連絡して迎えに来て貰えばいいじゃない」
店員は無言で、近くの電話を私の前に差し出す。
「え、何」
「電話、掛けてみて」
「どこへ」
「好きなところ」
私はダイヤルを回す。
「お掛けになった電話番号は、現在使われておりません」
私は受話器を置いた。掛けたのは、間違いなく私の自宅だったのだ。
「どうだった」
貴子が後ろからのぞき込む。
「あんたの家に掛けてみたら」
貴子に受話器を渡す。
数秒待たず、ええっ、だの、うそっ、だのという声が上がった。
「どこにも、繋がらないの」
あわてふためく貴子は取り合えず置いておいて、私は店員に尋ねる。
「うん」
「この電話だけ」
「違うっ。駅前の公衆電話でも試したけど、だめだった。駅前だけじゃない、どこの電話も外に通じない。電話局に聞いても、故障だって云うばっかりだし。だめなのよ。いろいろ試したけど、どうやってもこの町から出る方法はない。この町は入ったら二度と帰れないの。私も、あなた達も!」
「けれど、あなたの尻は、まだここにある」
「えっ」
取り乱した店員に、静かに声を掛けたのは、もちろんひっぷ様だった。聞く者を安心させる柔らかな声で、聴く人を脱力させる意味不明な言葉を語るのは、この人くらいだろう。
「私たちはあなたと出会い、あなたは私たちと知り合った。あなたと会えなければ、私たちは、もっと困った事になっていたでしょう。何も知らぬままにこの地に飲み込まれ、そして、あなたの云う通り帰れなかったかも知れません。しかし、私たちはあなたと出会った。それは、希望の始まりです。あなたの言葉は迷いの森の道しるべ、あなたの尻は暗闇を照らす灯台の光。そう、あなたの尻は私たちの希望。なぜなら、あなたの尻もまた、まだ希望を失っていないのだから。違いますか」
「そ、それは、もちろんこの町から出たいけれど」
「私たちは出会い、そこに道と尻があった。ならば、私たちが追うべき尻は、私たちの前にある」
「た、助けてくれるの」
店員がすがるように云った。
「いいえ、私たちがあなたを助けるのでも、あなたに救いを求めているのでもありません。私たちは、己の尻と共に歩むだけです。そこに尻がある限り」
「お尻がそこにあるかぎり」
「我らは尻と共に歩いて行きましょう。光り輝く明日の尻を目指して」
「あ、あなたは何者なのです」
今更のように、店員が尋ねる。
「私は、さすらいのヒッピー、匹夫勇。理想の尻を求める者です」
「ね、匹夫様素敵でしょ」
つい今し方まで半泣きで電話を掛けていた貴子が、なんだか誇らしげに話に割り込む。
「匹夫様がいれば、怖い事なんて何もないんだよ」
「うん」
店員が潤んだ目で頷く。
「匹夫様……」
ストックホルムシンドローム。
己の生存本能に従って、嫌な相手だろうが親の敵だろうが、自分を助けてくれそうな人を好きになる心の動き。
それはある意味、生物的に脆弱な人類が生き残るには必要な進化の方法論だったのかも知れない。だが、問題は、本当にこの尻マニアが私たちの助けになるのか、という点だ。
私は、偽りの恋心の代わりに、暗雲たる不安感がむくむくと湧き上がるのを感じていた。