三章 乗客
男が無言でこちらを見つめている。
弁明することもなく、威嚇するでもなく、いや、意志というのものを忘れ去ったように、ただ、じっとこちらを見ている。
粘つくような視線を感じる。
いや、男だけではない。
反対側のロングシートに腰掛ける男。四人がけに向かい合って座る女性。背を向けている老人の後姿。大きな背負子をひざの上に抱えた老婆。その向こうのクロスシートの前に立つ若者。
この車両にいる乗客すべてが、思い思いの方向を見ながら、何の表情も面に現すこともなく、けれど、確実にじっとこちらを伺っている、その意識の視線。
何より不気味なのは、その視線に意思が感じられないこと。余所者に対する敵意や好奇でもなく、侮蔑や怒りでもない虚無的な視線。
感情のない視線に対しては、怒ることも、怯えることも、笑って誤魔化すことさえできない。
「不帰、不帰でございます」
アナウンスの粘り着く声。
すでに、電車は鬼の口を過ぎていた。降りなくてはならない。だが、男が乗車口脇のポールに掴まっている上、ドアの前にも数人の今島津民が、やはり無表情で立っている。
動けない。
下手に動くと、何かが始まってしまう、そんな不安が支配する。
がたがたとドアがしまる。
「次は終点、今島津です」
車内に響く絶望のアナウンス。
「よ、良枝ぇぇぇ」
貴子がすがるような声を上げる。泣くな。私だって泣きたいんだから。
とにかく、次は終点だ。彼らだって、列車から降りなければならないのだ。
降りよう。
とにかく、この列車から逃げだそう。駅に降りれば駅員もいる。駅前交番だってきっとある。降りてしまえば、何とかなる。
そこがいくら今島津だって、ここは水と空気と平和がただで手に入る平和な昭和の日本、マサチューセッツ州の田舎町なんかじゃないんだから。
私は貴子の手を強く握った。
それは絆……じゃない、このうっかり娘が逃げ遅れないように、引き摺ってでも連れて行くためだ。
永い永い時間。
ほんの一駅の数分が、絶望的に長く感じられる。
「今島津、今島津、次は、今島津でございます」
着いた。
やっと着いた。
ドアが開く。
すぐには動かない。
逃げるのではない。
終点に着いたから必然的に降りるのだ。
皆が降りるのだから、この目の前の痴漢も、ほかの乗客も降りなければいけないのだ。
そして、自然にプラットホームに降り立って、あとは、ダッシュで逃げる。そこで、相手が手を出してきたら、そのときこそ貴子の出番だ。そこは電車という閉鎖空間ではない。一般世間という公的で開かれた場所なのだ。良識ある一般大衆の中でこそ、貴子の能力は最大限の効果を得る事ができるのだ。
頼んだよ、貴子。
私はそっと目配せする。
「ふへ?」
気の抜けた返事。
本当に大丈夫だろうか。
「降りるよ」
しょうがないので、こっそりささやく。
「え〜、無理だよぉ」
何を考えているんだ、このお間抜け娘。
「でも、だってほら」
貴子があごで示す。
「え?」
ドアが開いていた。
「で、でも、何で」
降りる気配がない。
目の前の男はもちろん、車内の誰一人動こうとしない。
こうなれば、強行突破しかないか。でも、今ひとつ決断にかける。
そのとき、ふと気付く。
降りなくてもいいんじゃないだろうか。
だって、ここは終点。電車はこのまま折り返して阿寒駅へ戻る。いっそ、このまま阿寒まで戻って、そこで逃げたほうがいいんじゃないだろうか。
発車のベルがなる。
それにしても……。
やっぱり、誰も降りない。
ベルがなっても、誰一人動く気配もない。
それどころか、車掌も運転手も替わった気配はなかった。
それなら、この列車はどこに向かうの。
この人たちはどこに行くの。
この先に駅も路線も無いはずなのに。
そして、私たちは……。
「降りなさい」
私のお尻に誰かの手が触れた。。