今島津を覆う影

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二章 泣き叫ぶ個人


 それは粘つくような感触だった。

 不快感が背筋をつたって下に降りてくる。

 物理的な湿っぽさと嫌な温度を帯びながら、ゆっくりと胸椎から腰椎、さらにその下へと移動する。

「あ……」

「しいっ」

 叫ぼうとして貴子に制せられた。

「な、でも、これ……」

「だめ、静かに」

 だめと云われても。

「だって、ちかん……」

「違う、痴漢じゃない」

 きっぱりと貴子が云う。幾らきっぱりと言われても、これを痴漢と云わずして、何を痴漢と呼べばよいのか。

「ねえ、だって」

「だから違うって。匹夫様よ」

「で、でもこれは」

 そんなやりとりをしている間も、もっちりとした手のひらがお尻をなで回している。

 これは誰が何を云おうと痴漢以外の何者でもない。

 わたしは意を決して後ろを振り返る。

 まるい顔があった。

 今島津顔の男だった。

 これがひっぷ様の正体なのか?

「このデブのおっさんが?」

 私は声を大にして叫ぶ。

 男が手を引っ込め、目を伏せる。

「違うっ。匹夫様はデブでもおっさんでもない。それは痩身美麗な……」

 振り返った貴子の目が点になる。

「この痴漢がひっぷ様?」

「え、あの、違……」

 私の問いに、一瞬言葉を詰まらせる。

 そして、次の瞬間、車内に悲鳴がとどろいた。

 姫野貴子、人呼んで≪泣き叫ぶ個人≫サイレン・マイノリティ。

「触った、触った、お尻触ったぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」

 貴子が泣き叫んでいた。

「ひどい、ひどい、ひどい、非道いぃぃぃぃ、鬼、悪魔、痴漢、変態、サディスト、鬼畜、外道!」

 私たちの尻を触っていた男がそれを呆然と見つめる。

「きゃぁぁぁ、怖いぃぃぃぃ、殺されるぅぅぅぅぅぅ」

 周囲の視線が貴子に集中する。

「いやぁぁぁぁ、変質ぁぁぁぁぁぁぁ」

「い、いや……」

 男は狼狽する。

「やぁぁぁぁ、誰かぁぁぁ」

「……おい」

「ひぃぃぃぃぃぃぃ」

「……」

 男は口をつぐんだ。

「やぁぁぁぁぁ」

 構わず貴子は泣き叫ぶ。

「……」

 男は黙って貴子を見る。

「いやぁぁぁぁぁぁ」

「……」

「ちょっと、貴子……」

 最初に気がついたのは私だった。

「いやったら、いやぁぁぁぁ」

「あのさ、貴子……」

「やぁぁぁぁ……あれ」

 そして、貴子の悲鳴が途切れる。

 おかしい。

 貴子も困ったように周囲を見る。

 乗客はこちらを見ていた。しかし、その視線は貴子の期待していたものでは、ない。

 大抵の場合、貴子がひとたび泣き始めたら、無関係を決め込んでいた大衆も、その過剰な悲鳴に次第に注意を向け始める。非日常的な出来事の目撃者としての共有体験は、日常の保身の中で忘れていた絶対的被害者への保護本能と社会悪に対する正義感とを目覚めさせ、その圧倒的な数の力により、ついには貴子を救い出す。それこそが貴子の得意技「泣き倒し」なのである。だが、だからこそ、その無敵とさえ云われる必殺技の威力は、周囲にいる「声なき大衆」たちの意志の総和と等しいものであり、ひとたび大衆の支持を失えばその無限の力は虚構の海へと四散する。

 というより、これは寧ろ。

「や、やばいよ、貴子……」

 私は貴子を引き寄せる。

 虚ろ。

 貴子達を囲む視線を言葉で表現するなら、生命なき空虚な洞窟の虚ろさ。僅かの精気さえ感じさせない死んだ魚の視線。

 今島津民。

 気がつけば車内は今島津民によって占められていた。そのどろりとした無気力な瞳には、社会的正義やら保護本能やらの片鱗すら見いだすことはできなかった。

「どう、した」

 男が耳障りな声で云った。

「あ、あの……」

 周囲の粘りつく視線が重圧のようにのしかかる。

 ふいに軋むような揺れを感じた。

「次は鬼の口、鬼の口です」

 どこか歪な響きで、アナウンスが入る。

 ぎしぎしと音を立てて扉が閉まる。

 まずい。

 この絶体絶命の状況で、電車はひたひたと今島津へ向かって進んで行った。


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