一章 今島津民
私と貴子は阿寒駅のホームに立っていた。学校帰りの生徒たちが、ここかしこと集まって、他愛のないおしゃべりに花を咲かせている。この時間にこの駅を利用するのは、ほとんど逍遙学園か御塚堂大学の学生だ。
土曜日の午後。
それは平日の放課後とは違う、不思議なざわめきに満ちている。
休日でも平日でもない曖昧な時間。
急ぎ足で過ぎてゆく午前と、ゆったりと流れる午後。
最近では、土曜日も休みにしようなんて動きもあるみたいだけれど、私は、やっぱり土曜日は土曜日のままがいい。この境目の日があるから、日曜日も楽しめるのだ。そう、土曜日は、休日という特別な時間に入り込むための扉なのだ。
「ふへへ。やっぱり良枝も匹夫様に会いたいんだ」
ふにゃけた声がした。
「だーかーらー、会いたいも何も、あんたの説明じゃ全然分かんないからこうして見に来たんじゃない」
「うん、うん。匹夫様かっこいいもんねえ」
貴子が幸せそうな顔で一人頷く。
「それは散々聞いた。で、どこに……」
「おや、貴子君たちじゃないか」
私の言葉を遮るように、背後で甲高い声がした。
貴子が露骨にいやな顔をする。私だってそうだ。振り向かなくても誰か解る。
「どうした?そうか、先生と会えてそんなに嬉しいか、うんうん」
空気を読まない明るい声で、網上院ヒロシ教諭が云った。
「嬉しくないっ」
とりあえず、私は答える。
「まあ、そんなに恥ずかしがらなくてもいいって。それより、ちょうどいい。お前達、最近この路線で痴漢が出るて噂聞いたことないか?職員会でも問題になって、見回りをしてるんだが」
「あ、知ってる」
貴子が嬉しそうな声を上げる。
「ど、どんな奴だ?どこで見たんだ?」
ヒロシもつられて声を上げる。
「ここっ!」
きゃたきゃた笑いながらヒロシ教諭を指さす。
「あ、電車来た!良枝、行こう」
呆然とするヒロシ教諭を置き去りにして、私たちはホームに滑り込んできた電車に乗り込んだ。
「……貴子、あんたもけっこう言うねえ」
「何を?」
きょとんと貴子が聞き返す。
悪意がない所が、怖い。
「まあ、いいよ。それより、ひっぷ様は」
きょろきょろと車内を見回す。
思いの外、学生は少なかった。
「だめだめ、こっちから探したって絶対会えないんだから。『しりを追う者はしりを得ず。しりを得るは、しり求むる者のみ』ってね」
「な、なにそれ」
「希望ってね、追いかけても手に入らない。追いかければ、逃げていってしまう物なの。でも、希望を忘れなければ、夢はきっと手に入るの」
それは、真理かもしれない。でも……。
「それって、何。論語?」
「違うよ。匹夫様のお言葉」
これは、宗教絡みかも知れない……。
不安が脳裏をよぎる。
宗教家とは、真理を使って人を欺す人種である。これは、ますますひっぷ様とやらに会わなければならない。変な宗教なら友人として貴子を放っておく訳にもいかない。
「で、私たちはどうすればいいわけ」
「だから、待つの」
「待つ」
「そう、こうやってつり革に掴まって、静かに外でも見てればいいの」
「はあ」
とりあえず、貴子の言葉に従って並んでつり革にぶら下がった。つり革のあるのは、ドアの両側にある二人がけのロングシートの前だけだった。それ以外は、向かい合った四人がけになっている。
私の目の前には、丸っこい顔をした田舎風の男が座っていた。
――今島津民。
わたしはふと、その忌まわしい噂を思い出す。
今島津は、阿寒町の西北に位置する。阿寒町まで海岸を走ってきた主要幹線は、人不知として知られる中摂津郡最大の難所を回避するため、トンネルの続く内陸部へと回り込む。
今島津に行くには、海岸を縫うように走る細い県道か、私たちが乗っている国鉄の次の駅、鬼ノ口駅から延びる二駅ほどのローカル線で行くしかない。
「今島津には近づいちゃいけね」
婆ちゃんはよく云っていたっけ。それが、どういう意味なのか私は知らない。古い偏見によるものなのか、何か町同士の諍いがあったのか、わたしがそれについて尋ねても、誰も固く口を閉ざし話そうとはしなかった。それでも、今島津にまつわる忌まわしい噂だけは絶えることなく耳に入ってきた。
あの村の住人は皆、ちょっと違う神様を信じている。元々、今島津民は違う国から来た帰化人で、深夜、その国から密輸船が港に入り、人の背丈ほどの麻袋と交換に貴金属を村人に渡している。今島津に行く電車に乗る人は多いが、帰りの電車に乗っている人間はいない。他にも、いかにも眉唾で怪しげで、一つ間違えれば裁判沙汰な噂が今島津についてまことしやかに語られている。
いや、噂だけじゃない。実際、差別問題だ、人権侵害だと乗り込んでいったどこかの人権団体が、メンバーの一人を欠いたまま半狂乱で逃げ帰り、そのまま精神病院に入院してしまったなんて事もあった。その事件は地方紙の片隅に小さく載ったきりで、それ以後全く表には出なかった。テレビも新聞も、ゴシップ好きな週刊誌でさえ一切黙りを決め込んだのだ。町の人たちの間でも、決して口の端に上る事はなかった。阿寒町では知らない人もない事件だったのに。
やっぱり、あそこは本当に何か怖い宗教団体の町なんだろうか。
私は、目の前の虚ろな目の男に目を移す。ごく普通のやや小太りのおじさん。それなのに、見る者の精神をいらだたせる名状しがたい雰囲気がその男から感じられる。
まさか、ひっぷ様って、今島津の邪教の教祖かなんかなんじゃないだろうか。そういえば、貴子やほかの鉄道者がひっぷ様について語る様子も異様だった。まるで何かに取り憑かれているような……。
「鬼流。おにながれ、です」
アナウンスが流れる。
列車が裏寂れたホームに滑り込む。
「北島方面ご乗車の方はお乗り換えです」
「あ、まずい」
私は声を上げた。北島方面が本線だから、私たちは今島津行きの列車に乗ってしまったのだ。
「貴子、ちょっと」
「ん」
「あんた、今島津に行く気だったの」
やはり、今島津の暗黒教団に……。
「ええ、まさか。なんで?」
貴子は鳩が豆鉄砲喰らったような顔で聞き返した。よかった。単純に乗り間違えたらしい。
「って、なんで毎日電車通学していて乗り間違えるのよ」
「別に間違えてないよ。つり革ある電車ならどれでもいいんだもん」
「なんで……」
そのとき、不意に背中にいやな気配を感じた。