今島津を覆う影

 N県中摂津郡今島津町。

 日本海に三日月のように突き出した半島と、険しい断崖の続く海岸線に挟まれた小さな漁村。

 断ち切られた断崖から海へ流れ落ちる沢の水が永い時をかけて谷を削り土砂を運んでできた猫の額ほどの平地に、鬼ノ口、不帰と小さな漁村が点在し、その先が、禍々しき戦慄をともなって秘やかに囁かれる今島津なのだ。

 現在ではわずかに千人弱の寂れた漁町も、戦前は人の途切れることもない賑わいを見せていた。

 小さな漁港には不似合いな漁獲高を誇り、魚河岸から溢れるほどの海産物を求め多くの人が集まり、近隣の町から生活必需品を背負って訪れる行商人は、空になった背負子に海産物を詰め込んで帰って行く。けれど、その賑わいを知る古老は、こう呟く。

「確かになぁ、今島津で富を築いた奴は多いよ。でもさ、福を掴んだ奴は誰もいねえ」

 今島津にまつわる風説は多い。日本語でもアルファベットでもない文字の書かれた異国の密輸船が時おり寄港して日本人を拐っていく、いるという有りがちだが地元では結構リアルさを持った噂から、怪しい新興宗教団体の総本部だと云う根と葉があるんだかないんだかわからない話、さらには終戦当時、GHQによって邪神の眠る岩礁に軍事訓練と称して無数の魚雷が撃ち込まれ、それ以来魚も採れなくなってすっかり寂れたなどという外国の三流怪奇雑誌の如き荒唐無稽な与太話まで、その内容は様々だ。

 荒唐無稽。

 そう、以前の私であったら、その手の噂を荒唐無稽なホラ話と鼻で笑って相手にすることもなかったかもしれない。けれど、私、逍遙学園二年A組有賀良枝は、知ってしまったのだ。あの町の本当の姿を。

 そして、風説の中にある恐るべき真実を。

 それというのも、それというのも……。

「あんたの所為よっ!」

「ふえ?」

 私の部屋で団子をほおばりながら呑気に漫画を読んでいた姫野貴子が、相変わらずのぽわんとした声でいい加減に返事をした。


今島津を覆う影

序章  鉄道者


「ふへへ」

 朝っぱらから、姫野貴子がふにゃふにゃな顔で、へにゃへにゃな声を上げた。

 土曜日の始業前の教室だっだ。

「貴子、どうしたの」

「し、あ、わ、せ」

 上の空で貴子がつぶやく。

「貴子?」

 もう一度声を掛ける。

「ふへへぇ」

 ふにゃふにゃした返事が返ってくる。

 これは、何かある。貴子は、平静からお気楽極楽ぽわわん娘だが、これは少々度を超している。

「ねえ、貴子、どうしたの」

 隣にいた遠藤三知子に尋ねる。三知子は貴子と同じ電車で通学しているから、途中で何かあったのなら、その一部始終を見ているだろう。

「それがね、あの娘、電車でとうとう会ったのよ」

 三知子が何か秘密を打ち明けるように小声でささやく。

「誰と」

「馬鹿ねえ。電車で会うって言えば、匹夫様に決まっているじゃない」

 三知子は当たり前のように言った。

「ひっぷさまぁ?」

 訳が分からず聞き返す。

「匹夫様……ふへへぇー」

 また、貴子が間の抜けた声を出す。

「ひっぷ様って誰よ」

「珍しいわね。この手の噂、あんたが知らないなんて。あ、でも仕方ないか。陸路の人だもんね、あんた」

 三知子が優越感に浸ったような声で言った。

 陸路。

 公共交通網の発達した都会と違い、駅から駅までの距離が極端に長い地方都市では、電車通学は明確に遠距離通学の象徴となる。阿寒町はもともと小さな港町である。そして、世帯数の限られたこの町にも町立阿寒中学校はちゃんとある。だから、地元のほとんどの生徒はそっちに通う。

 逍遙学園の生徒のうち、自宅から通う者の多くは、近隣市町村から親類縁者の期待を一身に背負い「難関私立」に入学し、その学園までの遙かな道のりを電車を利用して通う遠距離通学者なのだ。

 一方で、徒歩で通う生徒のほとんどは、全国から集められた寮や下宿に住む特待生か御塚堂大学の教員の子供、あるいは、ごく僅かの地元有力者のご子息、ご令嬢で占められる。

 ここに遠距離通学の地元民と徒歩で通うエリートという奇妙で微妙な区分けが生じる。そして、毎日を同じ電車に揺られる地元出身者達は自らを鉄道者と位置づけ、高架橋の上から地面を這いずる者達を見下ろしながら、僅かの侮蔑と多大な羨望を込めてこう呼ぶのである。

 『陸路の人』と。

「ま、陸路の人には縁のない世界かもね」

 三知子の声に憐憫の響きが混じる。

「だから聞いてるんじゃない。ひっぷ様って誰なのよ」

 私は少し悔しくなって声のトーンを上げる。

 教室の中に不思議な気配が駆けめぐった。「ひっぷ様」その声に何人かの女生徒が素早く反応したのだ。と、思うまもなく私の周りを女生徒が取り囲む。

――しまった。こいつらも鉄道者か。

 伊賀者の中に紛れ込んでしまった甲賀の忍者の如く、私は周囲を見回して逃げ道を探す。

 心地よいそよ風が頬をなぜる。

 窓が開いていた。

――ベランダ!

 反射的に、窓に手を掛けベランダに逃れようとする。

「貴子、匹夫様に会ったんだって!」

 しかし、集まった女生徒たちの視線は、私ではなく、貴子に集中していた。

「ねえ、本当」

「すごい」

「ね、ね、どうだった」

 怒濤のような質問が貴子に集中する中、三智子がふと気がついてこっちを振り返る。

「ところで、良枝。あんた何してるの」

「あ、いや、別に……」

 開いたサッシに足をかけたまま、私は固まっていた。

 そもそも鉄道者と陸路の人は抗争をしているわけではない。まして私は特待生でも名家の生まれでも教職員の子供でもない。私学の方がかっこいい、おまけに学費は公立とあんまり変わらない、というきわめて庶民的な理由で親が勝手に願書を出し、自分の未来を切り開く強靭な意思も、年少期の貴重な時間を磨り潰す無益な受験勉強も、天性の感性を恵まれた環境によって若くして開花させた早熟な才能も、地元経済発展と己の子息繁栄のための膨大な寄付金も、何ひとつ準備すること無なしに、風車に立ち向かう西洋武者の如く出たとこ勝負で受験したあげく、答えどころかそもそも問題が全然解らなかったので、試験時間中に解答用紙の両面に自作小説を書いて提出したところ、採点官のツボにみごとにはまったらしく「一芸に秀でた者」という基準で合格が決まった、という、ひょうたんから駒な、それ以外はどこに出しても恥ずかしくない完全無欠の『地元民』なのである。ちなみに、その時の問題は「現存在を構成する上で必要な前提について自由に論ぜよ」というもので、私が書いたのは「翡翠の剣」というファンタジー小説だった。

「ま、そんなことはいいからさ」

 私は必死に話題を戻す。

「ひっぷ様って何者なのか教えてよ」

 ざわ。

 何とも云えないどよめき。

 そして、続いて返ってきた言葉の洪水の中で、私がやっと理解できたのは、電車の中でひっぷ様なる人物に会うと幸せになれる、というなんとも中学生チックな情報だけだった。

「ま、所詮は陸路の人には理解できない世界よね」

 そうして、最後になにやら訳の解らない侮蔑の言葉を私に投げつけると、鉄道者達は再び貴子とひっぷ様の話を果てしなく続けたのだった。

――く、悔しい。

 よく分からないけど、いや、よく解らないからこそ、悔しい。なんで徒歩通学ってだけでこれ程の疎外感を感じなければならないのだろう。気が済まない。これはもう、絶対にひっぷ様とやらの正体を見極めてやらねば気が済まない。必ず、その正体を突き止め白日の下にさらしてやる、私は心に誓った。それがこの恐るべき事件の発端だとも知らぬままに。


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