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冷泉


 あれはきっと本当に雪女だったのだろう。

 雪道で拾ったその女は俺の車に乗り込むなり、
「温泉に連れて行け」
と云った。
「はあ」
 俺は間の抜けた返事をした。
「どこでもいいから、温泉に連れて行け。さもないと」
 女がまっすぐこっちを見た。
「お前を凍らす」
 現実感が伴わなかったのは、その言動よりも、女が常軌を逸するほど美しかったからかも知れない。白くなめらかな肌。端正な細面。細く長いまつげの下の虹色の煌めきを隠した黒い瞳が、じっとこちらを見つめている。細い首すじ。大きめく開いたTシャツの襟元から華奢な鎖骨のくぼみがのぞいていた。
 Tシャツ?
 見れば、女は大きすぎるTシャツに、スリムのパンツ、素足にサンダルという、さわやかな初夏の高原のお嬢さんみたいないでたちをしていた。いくら何でも、厳寒のこの時期に標高千メートルを超える高原で、こんななりをしているのは正気の沙汰ではない……。
「何をぼおっとしてる」
 女がちょっと首を傾げる。
「もしかして、凍るのが好きなのか」
「あ、いや」
 俺は慌てて首を横に振る。それを見て、女はほっとした表情を見せる。
「ならいい。凍りたくなければ、私を温泉に連れていけ」
「だからさ、なんで俺があんたを温泉に連れていかなきゃなんないんだ。なんで凍らせられなきゃいけないんだよ」
「だって、私は温泉に行きたいのだし、行けないのなら、お前を凍らせて、別の人を捜すしかないだろう」
「ないだろうって、俺をこのままにして車を降りるって選択肢はないのか」
「ない」
 女は当たり前に即答した。だが、それでは、あまりに理不尽ではないか。そもそも凍らせるとはどういう意味なのだろうか。いや、そんな事より以前に……。
「大体、あんたは誰なんだ」
「私か、私は雪女だ」
「ゆきおんな?」
「そう、雪女。冷たい吹雪で人の心まで凍てつかせる冬の精。さ、分かったらさっさと私を温泉に連れて行け」
「なんで、雪女が温泉に行きたがるんだっ」
 叫んでから俺は自分の失敗に気がつく。どう考えても相手は正気ではない。どんな事情があるのか知らないが、とにかくこうした手合いを相手にするのなら、まずは落ち着かせなければいけない。下手に刺激すれば事態をこじらせるだけだ。しかし、そう思うまもなく、女の表情がみるみる変わる。
「だって」
 女の声が震えている。
「私だって……」
 泣くか怒るか?
「私だって行きたかった……温泉に!」
 泣いた。

 「私だって、温泉に行きたかった。でも、あの人は全然連れていってくれなかった。はじめは温泉が嫌いなのかと思ってたんだ」
 泣きながら語る話は、言動こそ常軌を逸していたが、その内容はごくありふれたモノでしかなかった。
 亭主が温泉に女を連れていかなかったのは、勿論、温泉が嫌いだからではない。他に女が出来たからだ。出張と偽っては浮気相手と温泉に出かけていた。それが発覚して愁嘆場、そして。
「あの人を凍らせて家を出てきたんだ。私は雪女だ。雪女との約束を違えた者はその報いを受けねばならぬ。だけど……それだけじゃちょっと悔しいから、私は温泉に行く」
 女はちょっと寂しそうに云った。
 俺はしかめっ面になる。ことによるとかなり困った事態なのかも知れない。「雪女」という部分を抜かせば、どこにでもあるような話だ。そして、どこにでもあるような話だけに、恐い。人は現実から逃げるためにはあらゆる手段を使う。時に無意識のうちに自分の記憶さえ過去に遡って書き換える。自分が雪女であれば、「痴情のもつれ」という生々しい現実は、「雪女との約束を違えた男」というお伽噺に変容する。問題は、その現実が「喧嘩別れ」なのか「刃傷沙汰」なのか、それとももっと最悪の事態なのか。
「どうした、早く温泉に行け」
「あ、そ、そりゃ、構わないけどさ。でも、雪女って熱い温泉に入って大丈夫なのか」
 俺は思わず間抜けなことを聞いた。
「ばかをいうな。熱いお湯に入ったら溶けるに決まってる。冷たい温泉に連れて行け」
 女は当たり前のように答えた。
「冷たい温泉って、そんなものどこにあるんだよ」
 俺は釣られて聞き返す。
「知らない」
「知らないって、それじゃ連れていきようがないじゃないか」
 女は口を噤んだ。
 ふと、この女を正気に出来るかも知れないアイディアが浮かんだ。
「なあ、あんたさ。試しに普通の温泉に行ってみないか。気分がくさくさしたときは普段と違う事をしてみたらいい」
 熱い温泉に入ったところで溶けるわけはない。平気で入れるならば、自分が雪女でないことを自覚できるだろう。そうすれば正気に戻るかもしれない。もっとも、戻ってしまえばまた一悶着あるかも知れないが。
「ダメだ。あの人もおんなじ事を云った。だから一回行ってみたんだ。これを見ろ」
 女がしわくちゃの紙をポケットから取り出して広げて見せた。
『お気楽極楽温泉旅館!楽しさいっぱい、幸せめいっぱい!!蕩々とわき出す総天然露天風呂で体も心もリフレッシュ!!!』
 なんともチープな温泉のチラシだった。
「楽しさいっぱい、だぞ。幸せめいっぱい、だぞ。体も心もリフレッシュできるんだぞ。『混浴だから一緒に入れる。一緒の方が何倍も楽しいぞ』って、あの人も嬉しそうに笑ったんだ」
 女の瞳が一瞬子供のように輝いた。だが、すぐに表情は曇る。
「……でも、駄目だった。湯船まで行って、そっと指先を近づけてみたけど駄目だった。あんな煮えたぎるようなお湯に入ったら、一瞬で消えてしまう。だから、私はあの人に云ったんだ。これじゃ熱すぎる。もっと冷たい温泉じゃなきゃ駄目だって。そしたら、あの人はすっかり機嫌が悪くなって……。それからだ、あの人は変わってしまったのは。私が温泉の話を持ち出すと、いつも急に機嫌が悪くなって。そのうち、あんまり私と話さなくなって。帰りも段々遅くなった。そして、そして、私に隠れて別の女とこっそり温泉に行くようになったんだ。それまでは、それまでは、あんなに楽しい毎日だったのに」
 まずい。
 なんだか知らないが、想像以上に根っこが深い。
「どうして、どうして人は変わってしまうんだ。人の一生なんてホンのつかの間だというのに。なんでそんな刹那の時間で人の心は変わってしまうんだ。いつも、いつも」
 凍てつくような表情だった。美しいだけに凄絶な冷たさがあった。本当に車内の温度が二、三度下がったような気がした。
「ぐずぐずしていると、お前も凍らせる」
「ちょ、ちょっと待て。連れていかないとは云ってないだろう」
 女の言葉を鵜呑みにした訳じゃない。だが、ヒーターの入っているはずの車内で、指先がかじかんでくるのを俺は感じていた。
 まさか、本当に雪女なんじゃあるまいな。
 俺は頭を振って変な想像を追い払らう。そんな事より、凍てつく視線でこちらを睨んでいる女を落ち着かせないといけない。
「いいか、落ち着いてよく聞け。お前は温泉に行きたいんじゃなかったのか。それとも、俺を殺したいのか、どっちだ」
 俺の問いに女は一瞬押し黙る。
「……行きたかったのに」
 そして小さな声で答え始める。
「なのに、なのに、あいつは私を裏切ってほかの女と温泉に行ったんだ」
 女は顔を伏せてまた泣きだした。車内の温度は一段と低くなる。
「わかった。とにかく、温泉に連れていってやる」
「本当か」
 女はしゃくり上げながら訊ねた。
「ああ、約束するよ」
 俺はついそう答えてしまった。

「ええと、温泉プールはございますが」
 携帯の向こうで事務的な受付の声がそう告げた。
「プールならあるってさ」
「駄目だ。プールなら行ったことがある。でも、変な着物は着なくちゃならないし、なんだか水は変なにおいがするし、ちっともお気楽でも極楽でもなかった。あれなら川の方がましだ」
 俺は電話を切る。
 女の顔に失望の色が浮かんだ。もう十件目だった。めぼしい温泉に手当たり次第問い合わせてみたのだ。中には、うちは沸かし湯じゃないと怒り出す所まであった。
 二十度以下の天然温泉。そんなものがこの世にあるとは思えない。だが、女は二十度以上のお湯には入れないと言い張った。
 そもそも温かいから温泉なのだ。冷たければただの湧き水ではないか。もちろん、沸かし湯の温泉もある。休館日か昼間か、お客のいない時間帯で湯船が冷たくなっている時がないかも尋ねてみた。しかし、温泉は普通の風呂屋と違い、温度を下げることはできないのだという。温泉はただお湯を温めているのではない、実は浴室全体を暖めることで、あの温泉独特の温浴効果は出るのだという。一度浴槽の温度を下げてしまうと、元の暖かさにするには膨大な時間と費用がかかるのだ。だから、沸かし湯だろうと天然だろうと温泉を冷たくする事はほとんどない、という話だった。
「それじゃさ、サウナとかについてる水風呂じゃダメなのか」
「水風呂は温泉じゃないじゃないか。私は温泉に行きたいんだ。体も心もリフレッシュする天然温泉だぞ」
「それじゃ、家の風呂に温浴剤を入れたらどうだ。『登別なんとか』とかあるじゃないか」
「それもやってみた。でも、くさいばっかりで、楽しくもないし、しあわせでもなかった」
 なんだか、凍らされたという女の亭主の気持ちが分かるような気がしてきた。
「判った。でも、一緒に聞いたろう。冷たい温泉なんてないんだ。いくら頑張っても、無いものはどうしようもない。それでも、もう一件当たってみるから。これでダメだったら諦めろ」
 意外にも女はこくんとうなずいた。
「うん、諦める。諦めてお前を凍らせる」
 そして素直に恐いことを口にする。
 俺は困惑しながらダイヤルを押す。
「……うちのお湯は天然ですからねえ」
 変わらぬ答え。仕方ない。後は警察にでも任せようか。まさか本当に凍らされる事もなかろうが、温泉に行けないとなれば緊張の糸が切れ錯乱状態になる可能性は十分にある。そんな事を考えながら電話を切ろうとした。
「あ、ちょっと待ってください。なに……」
 電話の向こうで、数人が話す声が聞こえた。
「ああ、お客さん。あるそうですよ。ちょっとここからは遠いけど……」
 俺は電話にしがみつく。
 電話が終わる。
 女は目をまん丸に見開いて、不安そうにこちらを見つめる。
「見つけた」
 ゆっくりと俺は口を開く。
「本当、か」
 おずおずと女が聞き返す。俺はちょっと自慢げに首をたてに振る。
「本当に、本当にか」
「ああ、源泉温度摂氏2度。泉質は硫酸塩冷鉱泉。ちゃんと冷泉の湯船がある。正真正銘、天然の冷泉。しかも、露天風呂だ」
 俺は、いつの間にか女よりも浮かれている自分に気がついた。

「こっちにこい。冷たくて気持ちいいぞ」
「いや、いい」
 背を向けたのは、年甲斐もなく恥ずかしかったからではない。冷泉が本当に摂氏2度の源泉そのままだったからだ。
 谷間の小さな混浴の露天風呂だった。簡単な垣根に囲まれていて、湯船は二つあった。広い岩風呂の方は普通の温泉。その隣の屋根のついた小さなヒノキ風呂が冷泉だった。湯気ひとつ立たない湯船に、横の岩から樋をつたって冷たい源泉が流れ込んでいる。周囲の斜面には雪が残っている。俺達の他に人影はない。真夏なら兎も角、この厳寒期に水温一桁の水に浸かりたがる奴がいるわけがない。下手をすれば命に関わる。
 その極寒の冷泉に、女は気持ちよさそうに肩まで浸かっていた。満足そうなその顔を見ていると、本当に雪女なのかも知れないと思えてくる。実際、女の肌は透き通る程白く滑らかで、人間離れした美しさがあった。濡れた黒髪が絡みついた細いうなじから、触れれば折れてしまいそうな華奢な鎖骨のくぼみまで続くシミひとつないきめ細かな肌は、新雪の柔らかな曲面を思わせる。その美しいカーブはそのまま形のよい胸へと続き、茶色い冷泉の中に消えている。
「ああ、いい湯だな」
 俺はあわてて声を上げる。俺の視線に気がついたのか、女が急に振り向いたからだ。透明感のある黒い瞳が俺の顔を真っ直ぐに見据えている。
「なんだ、どうしたんだよ」
 俺は少し照れてぶっきらぼうに訊ねる。
「あの人もここを知っていたら、私と一緒に来ただろうか」
「あんたの亭主の事かい」
「そうだ」
 女は落ち着いた声で答える。
 俺は思いきって聞いてみる。
「あんたの亭主、死んだのか」
「うん、死んだ。冷たい息をひと吹き浴びせたら、つららのように凍りついて死んだ」
「そうか」
「うん、そうだ。ばかな男だ。私と一緒にここに来ていたら、死なずにすんだのに」
 女は空を見上げて寂しそうに言った。切ない表情だった。
「そうか」
 俺はもう一度云った。
 そして、しばらく沈黙が続いた。

 おれは岩風呂から上がった。
 昼間とはいいながら、冬の寒気が体を突き刺す。いや、その方が都合はいいのかもしれない。
 俺は檜風呂の側に立つ。
「こっちには入らないんじゃなかったのか」
 女が俺を見上げる。
「いや、せっかく来たんだし」
 手桶を持ってきて、冷泉の水を汲んで足の先からかける。
 冷たい。いや、むしろ痛い。
 俺は次に思い切って肩から冷泉を浴びる。
 女は首をかしげてその様子を眺める。
 寒い。猛烈に寒い。俺は震えながら冷泉に足を突っ込む。
 冷たい。サウナの水風呂とは桁違いの冷たさ。血管が縮む。心臓が圧迫される。息が出来ない。
「大丈夫か、死にそうな顔をしている」
「だ、だ、大丈夫」
 か、どうか、自分でも判らない。だが、少なくとも料金を取っている温泉だ。いきなり死ぬ事はないだろう、多分。
「つ、つめた……いい湯だな」
 俺は合わない歯の根で声を振り絞る。
 女は不思議そうにこっちを眺めている。
「な、な、なんだよ」
「おまえ、なんでこっちに入った?」
「そ、そりゃ、せ、せっかくの混浴だしさ。あ、あんたみたいな美人と一緒には、は、入れるなら、しあわせ、め、めいっぱいじゃないか」
 めいっぱい無理をして俺は云った。
「やさしいな、お前」
 女は笑いながら云った。氷のような透明感の中に、雪の温もりを含んだ声だった。
 俺は不思議な満足感が広がるのを感じる。そして、気がつけば先ほどまでの刺すような冷たさが消えていた。冷たさがほんの少し遠ざかり、体の中からじわりと暖かさがにじみ出てくる。真水ではあり得ない不思議な感覚。冷たさが消えたわけではない。けれど間違いなく体はぬくもりを感じている。
「さて、俺は温泉の方に戻るよ」
 俺は云った。
「なんだ、もう出るのか」
 女が少しつまらなそうに言う。だが、その顔は穏やかだった。
「こっちは人間だからね。これ以上入っていたら、流石にまずい」
「うん。お前まで凍ったらつまらない」
「凍ってたまるかい」
 笑いながら温泉に入る。熱いお湯に肩まで浸る。全身が痺れるような感覚につつまれる。
「くぅぅぅ、いい湯だなぁ」
 俺は今度は本心から声を上げる。
「うん、いいお湯だ」
 雪女の澄んだ声が谷間の冷泉に明るく響きわたった。

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