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伝道  〜罪なき者〜

なき者

 カペナウムの石畳に、黒い影がくっきりと映っています。
 照りつける太陽の下、けれど、ガリラヤの海から吹く風は、心地よい清涼感を運んできます。
 初夏。
 花咲き乱れる季節です。
「ひどい、なんであたしばっかり」
 平和な昼下がりを破るように、甲高い声が聞こえました。
 ざわ。
 群衆のざわめきが聞こえてきます。
 十重二十重の人垣の真ん中に、縄でぐるぐる巻きにされた若い娘がいました。
 エルサレムの丘のような白い肌。
 エリコの山の新月の夜のような透明な黒髪。
 長いまつげと切れ長の目尻、通った鼻すじを、丸みを帯びた頬の輪郭が包み込んで、全体としては幼さを残す柔らかな面立ちにしています。
 その、美しく柔らかな面に光る、石畳の影のようなくっきりとした黒い瞳。
 その瞳が潤んでいました。
「ひどい、酷い、非道すぎる!」
「やかましい、この淫売め」
 返ってきたのは群衆の罵声でした。
「淫売じゃないもん。お金なんてもらってないんだから」
 確かに、お金など貰おうとは思っていませんでした。本当のことを云えば、代償に魂でも貰えたらラッキーかなと考えなかった訳でもありませんでしたが、結果的には、暇つぶしに一夜を共にした相手が次の日に結納用のラクダ20頭を引き連れて娘の所に戻ってきたわけです。
 遊び好きの若者と見えた青年は、予想外に真面目で実直な人物だったのです。では、その誠実な人が、何で会ったばかりの娘と一夜を共にしたのかと、いぶかしむ向きもあるかもしれません。しかし、群衆に取り囲まれ縄でぐるぐる巻きにされているこの小柄な娘に、東方の砂漠からカペナウムの町にやってきたベドゥインの青年が一目惚れをするのも無理からぬ事だったのです。なぜなら、この娘は単なる遊び好きで素行の悪い少女ではなかったからです。それどころか、少女は人間ではありませんでした。嘗ては天界にあって神の左座に座り、その主なる神にも匹敵する輝きを持つといわれた熾天使の長、今や天界を追われ、汚れなき白き羽根を暗黒の翼へと変えた堕天使、躓きの石たる暗黒の王、この世の司ルシフェルだったのです。アダムとイブが楽園より追放する起因であり、この地に生まれた救世主さえも闇に誘わんとしたこの美しき誘惑者の誘いに、片田舎の一青年が抗えるはずもなかったのです。
――だからって、売春婦呼ばわりすることない。
 もっとも、このあらゆる天使を凌駕する強大な力を持った堕天使が、人の間に降り立つ時、その全ての力を現前することは出来ません。そんな事をすれば、人間が斯くあると感じ、その共通の認識として創り上げた世界そのものが崩壊する危険さえあるのです。
 人の中にあっては、人間として認識される程度にまでその力を制限しなければなりません。広大無辺の力能のほんの微細な一片をその小さな体の奥に宿し、人間の少女として、ルシフェルは人住むこの地に降り立ったのです。とはいえ、その力は、この時代の背後に潜むあらゆる名状しがたき向こうの世界の者たちが束になっても、その一息で吹き飛ばせるほど強大でしたし、その能天気さは、この時代に悩むあらゆる知性を、その吐息で一瞬に乱痴気騒ぎの渦に巻き込めるほどでしたから、本人はちょっとした暇つぶしのつもりでも、そのちょっとした悪戯は、人の魂をその根源からひっくり返してしまうほどの破壊力を持っていたのです。
 凄絶にして清廉、邪悪にして無邪気、妖艶にして陽気、星の輝きを持つ漆黒の誘惑者、人の世にあってはマグダラのマリア、7つの魔性を秘めた女と呼ばれていました。
 マリアの魔性の魅力を前にして破滅的で退廃的な道を選んでしまう多くの愚かな者たちに比べたら、たった一夜を共にしただけの少女を娶ろうと結納品まで用意した青年の行為と判断は、きわめて真っ当で、幸運な選択だったといえるかもしれません。
 けれど、この正しき道を選んだ青年に対してマリアが返したのは、
「馬鹿な人。どんなにお金を積んだって、あたしを自由にできるのは一晩だけ。そんなことも知らなかったの」
という、身も蓋もない言葉だったのです。
 青年のあまりに誠実な態度に閉口したマリアは、こう云えば呆れ返って帰るだろうと考えたのです。
 その結果がこれでした。
 怒りにまかせてマリアの行状を並び立てた青年の声に、日頃からその振る舞いに眉を顰めていた町の人々が動かされ、マリアはたちまち捕らえられ、縄でぐるぐる巻きにしてしまったのです。
「さて、こいつをどうするか、だ」
「何よ。あたし何にしてないもん」
「ぼ、僕を騙したくせに」
 青年は顔を真っ赤にして罵ります。
「だから、あれは単なる遊びだって」
「あ、遊び」
「やっぱり、こいつは淫売だ」
「とんでもない女だ。打ち殺してしまえ」
 云えば云う程、どんどんマリアの立場は悪くなっていく一方です。
 マリアにとってこの程度の群衆自体は、そんなに怖い存在ではありませんでした。いざとなったら、その力の一端を現して、いつでも逃げることは出来たのです。しかし、人間としてのマリアは、多少常軌を逸した放蕩娘とはいえ、それなりの過去や人間関係を持っている普通の少女として存在しています。ここで突然群衆の前からかき消えてしまったら、魔女だの何だのと後で何を云われるか判りません。最悪の場合は、この群衆の記憶を全て書き換えて、始めからマリアなどいなかった事にしなければならないかも知れないのです。
――そん時はそん時で。まあ、明日のことは明日考えればいいよって神様も云ってるし。
 マリアはそれでも、呑気に構えていました。悪評ならすでに充分受けています。ここに二、三悪い噂がひっついても、それ程影響はあるまいと、高を括っていたのです。
 ところが。
「そうだ。こいつを引っ括って、あのナザレの男の所に連れて行ったらどうだ」
 その一言で、マリアの余裕は、霧散しました。
「ああ、あの罪人でも救われるとか叫んでる変人か」
「本人は預言者だとか救い主だとか云ってるぞ」
「だから、さ。その救い主様がこの女をどうするか見てみないか」
「それは面白い」
 マリアはその言葉に顔色を失いました。
「ちょ、ちょっと、それは……」
 それはマリアにとってこの上なく困った事態でした。荒野での誘惑の後、ルシフェルは、イエスが今後どうなるのか、どうしても見届けたくなって、この世界に留まったのです。大天使ミカエルは、烈火のごとく怒ってそれに反対しました。いくらかつて天上の第一天使であったとはいえ、今では天界の敵対者、時の終わりに再び天と戦う反逆者を、よりにもよって世界の救い主誕生の時代に地上に置いておくわけには行かなかったからです。
 一悶着がありました。
 周りの天使から見れば、それは、悶着どころか、ひとつ間違えば最終戦争も引き起こしかねない胃の痛くなるような緊迫したやりとりでしたが、天使達の無いはずの胃袋に穴が開く寸前に、天より主の声を伝える御使いがやってきて、あくまで人間として立ち振る舞うこと、その目付役としてミカエルも人として同行すること、そして、イエスの終わりの時に立ち会うことを条件に、ルシフェルはここに留まる事が許されたのです。
 そして、今日が、ルシフェルが人間マリアとしてイエスと初めて出会う予定の日だったのです。
――うう、どうしよう。
 どう考えても、イエスと始めて顔を合わせるのに最悪の状況というしかありません。イエスがマリアの罪状を聞いて、怒って追い払うなどという事はないでしょう。その代わり、そんな評判の悪い娘を庇い仲間にしたら、イエスの評判まで堕ちてしまいます。ましてや、群衆の前からかき消すように逃げ去って、その後、イエスの傍らに忽然と姿を現すような事をすれば、評判どころか妖術使いの一味の烙印を押されかねません。
――やっぱり拙い。すごく拙い。またマルタに怒られる。
 マルタとは、マリアの姉の名です。マルタもまた、人間ではありませんでした。人と最も近い天使、それ故に天使のヒエラルキーでは下位の大天使に位置づけられ、けれど、その力はルシフェルさえも凌駕すると云われる戦いの天使ミカエルの、人としての名前だったのです。
 地上に降りたマリアは、初めての人間の生活が面白くて羽目を外し、時には人の範疇まで逸脱し、マルタから四六時中怒られていました。まして、この先数千年にわたり人間の歴史に影響を与える救世主イエスまで巻き込んだとなれば、小言一つでは絶対に済みません。マルタの激怒は、元々が戦いの天使だけに、マリアといえども十分恐るべきものだったのです。
――こんなに早くハルマゲドン戦役になったら、今度は神様から直接怒られる。まだ、黙示録も書いてないのに、うう、困った、参った、どうしよう。
 世界の終焉に関わる事態を深刻に、けれど傍から見れば限りなくのほほんと考え込んでいるうちに、群衆はマリアをイエスの元へと引っ張って行きました。

 そこは街の中心の広場でした。
 広く四角い水場があって、その傍らにイエスが座っていました。
「おやおや、これはイエス先生ではありませんか」
 群衆の中の律法学者が、態とらしく声を上げます。
 その声が聞こえたのかどうか、イエスは石畳に目を落としています。
「私ども、日頃からあなたのお言葉に大変感銘しております。で、今日、この女を捕らえましてね」
 律法学者はマリアをぐいっと引っ張って、イエスの前に引き回しました。
「この女、大変汚らわしい売春婦でして、今日も何も知らない若者を誑かし、淫らな行いをしたあげく、財産まで奪い取ろうとしたのですよ。モーゼは律法の中で、このような女は石で打ち殺せと命じましたが、さて、先生はどうお考えになりましょう」
 イエスはそれに答えず、地面に蝋石で文字を書きつづっています。
「おやおや、先生、お声でも煩いましたか」
 律法学者はその文字を覗き込みながら云いました。
「やれやれ、この様な悪女を野放しにして、さて、先生は何を書いておられる……」
 そこで学者は言葉を失いました。
『根拠なき噂を流すなかれ。悪に加担し、不法なる証人となるなかれ。多者に寄りて悪を行うなかれ』
 それは古い律法でした。
 イエスはその時、初めて顔を上げました。
 澄んだ瞳が、静かに律法学者を見つめます。
「あ、あ、あの」
 学者は、己の心を見透かされた心地がしました。この難しい判断の中で、イエスがうっかり律法に反することを云ったら、エルサレムの司祭らに訴え出て、イエスを捕らえようと考えていました。反対に、もしこの女を律法の通り罰するように云うならば、それは普段説いている罪の許しとは全く逆になってしまいます。だから、イエスがどちらに転んでも、結局その評判は落ち、上手くすれば罪に問えると考えたのです。
「では……」
 イエスの声が石の町に響きます。
「君たちの中で、罪のない者が、最初にこの女に石を投げ打つがいい」
 人々は顔を見合い、とまどいの視線を彷徨わせ、そして、律法学者に向けました。
「どう、でしょうか」
 イエスが静かに問いかけます。
「あ、あの」
 誰かに助けを求めるように、律法学者は周囲を見回します。けれど、周りの人々は、イエスの言葉に困惑して、律法学者が何か云ってくれるのを待っているばかりです。
「どうしました」
 変わらぬ調子でイエスは、また、問いかけました。
「い、いや、それでいい」
 律法学者はしどろもどろに云いました。
「さて、み、皆さん。先生もこう云っています。みなさんの中で罪のない者がこの女に石を投げなさい。で、では、私は仕事があるのでこれで」
 そこまで云うと、学者は逃げるように去って行きました。
 残された群衆は、時折、隣の人をちらちら見ながら立ちつくしました。もちろん、マリアに石を投げる者はいません。
 そのうち、一人、また一人とその場を立ち去ります。最後に残った青年も、マリアを一回睨むと、踵を返して走り去りました。
 そして、道の真ん中にマリアだけが、縄にぐるぐる巻きにされて残されました。
「さて、あの人たちは何処へ行ってしまったのでしょうか。結局、だれもあなたを罰しませんでしたね」
 イエスは、再びかがんで文字を書きながら云いました。
「う、うん」
 マリアは何とかそれだけ答えました。
「わたしもあなたを罪に定めません。しかし、これからはもう罪を犯してはなりませんよ。さあ、もういいでしょう、行きなさい」
「え、えっと」
 行けと云われても、マリアはイエスに会いに来たのです。それ以前に、このぐるぐる巻きでは、行くも帰るもなりません。
「どうしました」
 イエスは顔を上げました。
「おや、これでは帰れませんね。今、縄を解いて……」
 そこで言葉が途切れました。
「あの、イエスさん」
「どこかで」
 イエスが遠い目をして呟くように云いました。
「以前、どこかで会いましたか」
 マリアは黙ったままちょっと首を傾げました。それから、何かに気がついて、ととっと道の脇の藪まで駆けていき、かがみ込みます。それから、立ち上がり、手を後ろに組んで今度はゆっくりとイエスに近づきます。
 空が翳りました。
 イエスは天を仰ぎます。
 青い空にぽっかりと浮かんだちぎれ雲が、太陽を隠しています。
 ちぃぃぃ。
 鳥が啼きました。
 小さな鳥が石造りの家の屋根から虚空へと飛び去って行きます。
 ぎらり。
 雲が流れ、太陽が現れます。
 白。
 まぶしい光に世界は一瞬真っ白になります。
「はい」
 マリアがイエスに手を差し出します。
 赤。
 白い光の中に鮮やかな赤。
 深紅のヒナゲシ。
「初めまして、だね」
 涼やかな声でマリアが云いました。
 鮮やかな黒いケープが風にゆらめきます。
「えっとね、私はマグダラ村のマリア。だから、会うのは初めてってこと」
 マリアは謎を掛けるように言葉を重ねます。
 イエスは、黙ったままマリアを見つめました。
 ちぃぃぃ。
 また、鳥が啼きました。
「そう、そうですね」
 イエスは、ゆっくりと云いました。
「初めまして、マリア」
「うん、やっぱり、初めましてだよね。イエスさん」
 マリアがうれしそうに云いました。

 こうして、イエスとマリアの物語は始まったのです。

つづく

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©Yuichi Furuya 2009

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