「ふう、全部出たね」
穴の底にイエスの亡骸が横たわっていました。
「ええ」
疲れ果てた声でミカエルが答えます。
「くたびれたね」
――あんたのせいでね。
ミカエルはその言葉を飲み込みました。なんだか、怒るのもバカバカしくなってきていたからです。
「そいで、これからどうすんの」
「どうって、何が」
面倒くさそうにミカエルが聞き返しました。
「だってさ、これ」
ルシフェルがイエスの亡骸を指さします。
「だから、これじゃないでしょう」
ミカエルが力無く云います。
「だって、もうイエスさんじゃないもん」
「ええ」
ミカエルが頷きます。本当は先ほどルシフェルがからかった時に、ミカエルも気が付いていました。
ここに横たわっているのが三日前までイエスだった人間の亡骸であることを。
塵より生まれ、塵に還る人の子の血と肉に過ぎない事をミカエルも解っていたのです。
「イエスさん、どこ行っちゃったのかな。死んじゃったのかな」
「ああ、もう。だから、確かに死んでるわよ。問題は魂がどこ行っちゃったかってこと」
「きっと地獄に行ったんだよ」
「なんで神の一人子が地獄に堕ちなきゃなんないのよ。あの方は、全ての人間の罪を贖ったのよ。人の子として、神の顕現たる人の子として、罪を背負い十字架に掛けられたあの方が、何の因果で地獄に堕ちなきゃなんないのよ、あんたじゃあるまいし」
「あたしは墜ちたんじゃない。降りたんだよ。それに、神様の顕現て云うなら、あたしだって神様の様態だもん」
「あんたの場合、様態っていうより幼体じゃない」
「違うもん。その気になれば、いつでもナイスバディのセクシーギャルになれるんだから」
「外見の話じゃないわよ。精神年齢よ、精神年齢。あんたの精神年齢は56億7千万才くらい幼稚なのよ、他の天使に比べて」
「あたしは、56億7千年経ったって、ミカ姉ちゃんみたいなおとこおんなの大年増になんかなんないから」
「だーれーがー年増の男女だ、誰がっ」
「きゅあ、いたたたた」
ミカエルはルシフェルの頭を左手でがっしりと締め付けながら、右のげんこつをグリグリと押しつけます。手加減しているとはいっても大天使の制裁をまともに受けて痛いで済むのは、天界広しといえどルシフェルぐらいです。他のちょっとした天使や精霊だったら、たちまち塩の柱になってしまいます。
「ごめん、ごめん」
「あら、ごめんで済んだら裁きは要らないって諺、知らないの」
ぎゅう。
素知らぬ顔をしたまま、ミカエルは腕に力を込めます。
「いたたたた、知らない。知らない。そんなの知らないよぉ」
「あ、そう」
そして、ようやく腕をゆるめると、ルシフェルは素早く首を抜いて、二三歩後ろに飛び退きました。
「ミカ姉ちゃん、非道い、鬼、悪魔っ」
「あんたにだけは云われたくないわね」
「だって、あたし謝ったじゃないか」
ルシフェルはちょっと涙声で云い返します。
「あんたはその存在自体が誤ってんのよ」
「莫迦、ミカ姉ちゃんの莫迦、意地悪。あたし、ちゃんと謝ったのに。神様だって、六の六十六倍許しなさいって云ってるじゃないか」
「それを云うなら七の七十倍でしょう。ああ、あんたと付き合ってるとこっちまで頭がおかしくなってきそうだわ……ん、ちょっと待って」
云い返そうとするルシフェルを制止して、ミカエルは穴の上を見上げました。
「誰か来る」
「イエスさんのお母さんだよ」
それはルシフェルのよく知っている気配でした。
「まずいわね。今、イエス様の亡骸見せるわけには行かないわ」
「うん、ずたぼろだもんね」
「うるさい。仕方ないわ、あんた何とかしなさい」
「え、ちょっと……」
「とにかく、私が時間を稼ぐから」
ミカエルはそれだけ云うと、ついっと穴の上に上ってゆきました。そうして、大きな石の上にそっと腰を下ろすと、ミカエルの体から柔らかな光がこぼれ始めました。
「あなた方は何をされに来られたのですか」
ミカエルが凛とした声で洞窟の前に立つ二人の女性に声を掛けました。
「だ、誰ですか」
脅えた声がしました。
イエスのお母さんである母マリアとシモンの奥さんのヘレナでした。二人は安息日が終わったので、死んでしまったイエスの体に香油を塗るためにここまできたのです。けれど、ここまで来ると番人は倒れて、洞窟を塞いでいた筈の石も横に転がっていたので、たいそう驚いていたのです。
「あ、あの……」
二人の顔には驚愕と、それ以上の深い憂いが刻まれていました。
「恐れることはない。あなた方が誰を捜しているのか知っている。しかし、あの方はここにはおられない」
「ここに、いない」
困惑したように二人は聞き返します。
「そう。ここは死者の場所。あなた方はなぜ生きている方を死者の間に求めるのですか」
「生きている」
「そう、あの方は甦られたのです。まだ、ガリラヤにおられたとき、あなた方にお話になられたことを思い出しなさい」
力強い、けれど、優しい声でした。二人の顔から憂いが少しづつ消えて行きます。
「すなわち、人の子は必ず罪人らの手に渡され、十字架につけられ、そして、三日目に甦ると……どうしました」
ミカエルはそこで言葉を飲み込みました。母マリアとヘレナの表情に再び驚愕が浮かんだからです。それも、先ほどの憂いを帯びた表情ではありません。
恐怖。
その顔には人が見てはならぬ深淵を覗き込んでしまった者だけが見せる絶望的な恐怖が浮かんでいたのです。
「あの、もしもし?」
当惑顔でミカエルが声をかけます。けれど二人の視線はミカエルの背後に向けられたままでした。
「あ、えっと、なに……げっ」
その視線を追って後ろを振り返ったミカエルもまた驚愕に凍りつきました。
そこに二人の姿がありました。
一人は、若い娘。
その横に、首が嫌な風に折れ曲がり、糸でつり下げられたように両手を付きだし、妙な角度でねじ曲がった足でよろよろと立つ血塗れの男が立っていたのです。
「あ、お母様。ヘレナさん。えっと、今晩は」
娘がちょっと困ったように声をかけます。
「小さなマリア……どうして……」
母マリアが震える声でようやく口を開きました。小さなマリアというのはマグダラのマリア、すなわち、この時代の人間としてのルシフェルの呼び名です。
「あ、えっと、あたしも後から来たらね、そ、そこの角で会ったの」
「会った」
「うん、ほら」
びくっ。
男の首がけいれんしたように動きました。
ごぎゅり。
そして、湿った音を立てて首は真横に曲がりました。
ぎぢぃ。
雑巾が引き千切られるような音を立てて、その首がねじ曲がって行きます。血糊で所々固まった髪が男の顔にかかっています。
ざ。
その髪が一瞬ざんばらに広がります。
バネが戻るように、男の顔が二人の方に向きます。
額にはまだ湿ったひっかき傷が真横に走っています。
蒼白な顔でした。
痩けた頬に髭がべったりと垂れ下がっています。
目が開いています。けれど、瞳は見えません。どろりと淀んだ白目です。
ずるり。
かつて人の子だったモノが母マリア達の方へよろめきます。
「ひっ」
腰が抜けたように二人はぺたりと座り込みます。
「どうしたの、お母様。お化けじゃないよ」
困ったようにルシフェルが云います。
「ほら、ちゃんと手も足もあるよ」
びくり。
死体の手が虚空を鷲掴むように引きつります。
母マリア達はいやいやをしながら、後ろにずり下がります。
「ああ、困ったな。そうだ!ね、触ってみて。ちゃんと骨も肉もあるんだから」
けれど、二人は必死に後ろにずるばかりです。
「うう、困った。ね、イエスさんからもなんか云って」
そういいながら、ルシフェルは二人に分からないように、素早く死体のぼんのくぼの辺りに指を突き刺します。
「……へ……」
まるで何かにこじ開けられるように、血の気の失せた唇が開きます。喉から振り絞るような湿った声が響きます。
「……へいあん……あれ……」
悲鳴がこだましました。
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©Yuichi Furuya 2005-2006