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ルシフェルによる福音書

 まどろみ。
 深いまどろみ。
――何処だ。
――誰、私を呼ぶのは。
 闇。
 ねっとりと濃い闇。
――何処にいる。
――誰、あなたは誰。
 凍土。
 永久の凍土。
――早く。
――なぜ、あなたは私を呼ぶの。
 そこは地獄と呼ばれた場所。
――早く。
――なぜ、急ぐの。
――時が来たから。
――時。
――そう、時が来たのだから。
――時……。
 まどろみはやがて現実へ還る。
 そこが、永遠の魂の牢獄だとしても。

    ――――ディアボロス行伝

誘惑 〜東方編〜

「って、今、なん時?!」
 寝ぼけた声を上げたのは、嘗て神の左座にありし光の天使、天より落ちたる明星、闇の魔王、この世の司、堕天使ルシフェルでした。
「なんだなぃ、急にでっかい声出して」
 ルシフェルの枕元でとぐろを巻いていた古きヘビが、眠そうな目をしばしばさせながら、ゆっくりと鎌首をもたげます。
「大変だ。寝過ごしたっ」
 飛び起きたルシフェルの白い素肌から、霜がバラバラとこぼれます。この永久凍土でどれ程の眠りに就いていたのでしょう。
「ヘビさん、お留守お願い。あたし行かなきゃ」
「何を慌ててんかね」
「だから、神様との約束忘れてた。ああ、またミカ姉ちゃんに怒られる」
 云いながら細い腕をすんと伸ばすと、闇が衣となってその華奢な体を包み込みます。
「んじゃ、ちょっと行ってくる」
「あ、ちょいと」
 ヘビが何か云う前に、ルシフェルはついっと闇にかき消えました。
「やれやれ」
 地獄の底の凍てついた闇に、古きヘビのため息だけがこだましました。

「ええと、何処だろう」
 ルシフェルは、きょろきょろと辺りを見回します。
 密林が何処までも広がっています。
 繁る巨木、巻き付くツタ。その枝に留まる鳥。枝を這う蜥蜴。木々を渡り、下生えの繁みを進む獣。栄養を含んでねっとりと流れる川に隠れる魚。飛びまわる羽虫、這いずる地虫。さらに目に見えぬ無数の名も無き生き物たち。
 森はあらゆる生命の息吹に満ちていました。
「すごい。魂が波打つ音が聞こえる」
 ルシフェルは目を丸くして、目の前に広がるむせ返るような密林を見つめます。
「……でも、こんなんだったっけ?」
 それから、ちょっと首を傾げます。眠る前にこの地を訪れたときは、もっと砂と岩のごろごろした荒野だったような気がしたのです。
「やっぱり寝過ごしちゃったのかな。でも、確かにこっちで気配がしたし」
 ルシフェルは不安そうに呟きます。天界や地獄は時間の流れがこの世界とは異なっています。うっかりすると百年二百年簡単にずれてしまうのです。
「まずいなあ。確か、あたしが行かないと死んじゃうんじゃなかったっけ」
 つい。
 両手のひらを上にして、腕を揃えて真っ直ぐに伸ばします。
 ゆらり。
 手のひらの上に陽炎が浮かびます。
「教えて、この世の救い主は何処にいるの」
 密林が吐き出す濃密な大気が細かくゆらぎます。
 手のひらの向こうの風景もゆらゆらと陽炎の中でゆらぎます。
「もっと、大地がぐらぐら揺れるぐらい」
 どん。
 目に見えない何か巨大な塊が真っ直ぐに落ちたように、ルシフェルを中心に大地が同心円を描いて波打ちます。
 大地の波紋は音の速さで広がります。
 ぞぞ。
 密林がざわめきます。
 この世ならざるゆらぎを、濃縮された生命の坩堝は敏感に感じ取っているのです。
 その中に。
「いた」
 ルシフェルの顔に笑顔が浮かび、一瞬後に曇ります。
「あ、でも死にかけてるっ!」

「こんにちは」
 ルシフェルはその男に声を掛けました。伸ばすままに任せた髪と髭にかくされた頬が、げっそりと痩けています。肩から斜めに巻いた薄茶色の布からのぞく肩も胸も、脂肪どころか筋肉までそげ落ちて、本当に骨と皮だけになっています。足も手も、指先さえもげっそりとやせ細っています。もはや立っている力もないのでしょうか、大きな木の根元にあぐらをかいたまま、ぴくりとも動きません。落ちくぼんだ眼下の奥の瞳は、半開きのまま虚空を見つめています。
 神様の話だと、男は四十日四十夜荒野を彷徨い、空腹と疲労の極限でルシフェルの誘惑を受けねばならない、ということでした。でも、寝過ごした分だけ、もっと日数が経っているのかも知れません。
「あ、あの……死んじゃった?」
 ちょっと戸惑ってルシフェルは訊ねます。
「それとも、お腹が空いて答えられないの」
 男は何の反応も示しません。
「ねえ、ねえってば。生きてるのか死んでるのか、それだけでも答えてよ。さもなきゃ、先にすすまないじゃん」
 ルシフェルは男の目の前で手のひらを揺すります。
「どうしよう。つっついてみようかな。でも、つっついたら、なんかそのまんま死んじゃいそうだし」
 ぺたん。
 ルシフェルは、男の脇に座りました。
「大体、何処見てるんだろう」
 ルシフェルは半眼に開いた視線の先を目で追います。うっそうと繁る密林があります。
「ジャングルだね」
 男が何も反応しないので、一人で呟きます。
 強烈な緑が目の前に広がります。
 大地を覆う深い暗緑色の葉は、遙か昔この地上を覆っていた温かく重たい大気をめいっぱいに取り込んで、うねるように大地に張り巡らされその根から栄養いっぱいの水を存分に吸い上げ、さんさんと照る陽射しの持つ力によって、水と大気を宇宙の最初の原子へと砕き、再び新しい生命の糧へと変えて行きます。
 そうして枝葉に存分に蓄えられた命の糧は、その奇跡を生み出す工房たる枝葉の緑とともに、森を歩み、枝を渡り、草木を噛む生き物たちによって容赦なく略奪されて行きます。陽の光をその内に閉じこめた命の糧は、草噛む者の体内で、再びその力を解放させられ、筋肉の躍動へと変えられて行くのです。
 陽を浴びる草木にはけして出来ない四肢の躍動感は、けれど、気配を消し、密やかな足音で忍び寄る肉喰らう者達によって突如として引き裂かれ、咀嚼され、飲み込まれて行きます。
 そして、創造と略奪との鎖の中を無限に流転するかと思われた生命の力も、時という絶対者によって、ふいにその存在を断ち切られるのです。
 陽を浴びる者も、草を芻む者も、肉を喰らう者も、等しく己の時の終わりを迎え、小さき者どもによって塵へと帰って行きます。
 汝らは塵から生まれたのだから。
 そして、塵となり大気と大地に四散した豊穣な生命は、ふたたび、陽の光と、それを浴びる者によって新たなる生命を産みだして行きます。
「すごいね。ぐるぐる回っている」
「全ての物は流転する」
 ふいに男が口を開きました。
 小さな声。
 擦れそうな声。
 それなのに、とても力強い声。
「あ、生きてた」
 ルシフェルは、安堵の声を上げました、
「悪魔、お前はこの世界、どう見る」
「へ?」
 ルシフェルの目がまん丸に見開かれます。
「そう驚かずともいいではないか、悪魔よ。お前は俺を試みに来た悪魔なのだろう」
「あ、ええと、そうなんだけど」
 男の言葉につられるように、ルシフェルは答えます。
「ならば、俺を試みる前に俺の問いに答えよ。この世界、お前はどう見る」
 男は、視線だけを動かして、密林を示します。
「え、ええとね、きれいだよ」
 ルシフェルは答えます。
「そうか」
 男はそれだけ云うと、また、黙り込んでしまいました。
 沈黙がつづきます。
 森のしわぶきが二人を包みます。
「あ、あの」
 ルシフェルは、男に声を掛けます。答えはありません。
「あの、あなた王さまでしょ」
 ちょっと不安げにルシフェルは訊ねます。
「古き王の血を引く者。やがてこの世界の王として苦しむ人々を約束の地へ導く救世主、だよね」
 ちょっと不安げにルシフェルは訊ねます。
「捨てた」
 今度は、答えがありました。
「捨てた?」
「王の道は捨てた」
「やめちゃったの?」
 男は黙って頷きます。
「な、なんで」
「王となったら、人を救えるか」
 男は聞き返します。
「え、それは」
 順番が違う、と、うっかり口に出しそうになって、ルシフェルは慌てて言葉を飲み込みます。
 人の世の救世主となる男を試みるように神様に云われたとき、ルシフェルは三つの誘惑を考えました。その三番目が、この世のあらゆる栄華を極めた世界の王となる代わりにルシフェルを主なる神と崇めるように、というものだったのです。それをいきなり捨てたといわれては、誘惑のしようがありません。
「どうだ、人を救えるか」
 男は重ねて問いました。
「ええと、どうだろう」
 ルシフェルは、何とかそれだけ答えました。
「そうか」
 男はそう云って、また、沈黙してしまいました。
「ああ、なんか予定と違う。あ、そうじゃなくて、ねえ、そんなことより、このままじゃ、あなた本当に死んじゃうよ。誘惑とかそういうの関係無しに」
 それは本当の事でした。幾ら男が神より選ばれた救い主だとしても、この世界にいる限りは、この世界の制約を受けます。たとえ霊が残っても、肉体が滅んでしまえば、それは人としての死に他なりません。
「死んじゃったら、人は救えないよ」
 その言葉に、男は始めて面に表情を浮かべました。
「死ねば人を救えぬか」
 男はまた沈黙しました。けれど、今度は程なく言葉を続けました。
「ならば、この俺は死によって救われるだろうか」
「え?」
「死によって、この世の苦しみから、抜け出せるだろうか」
「この世の苦しみ」
「病気となった者の苦しみ、老いを重ねる者の苦しむみ、死へ向かう者の苦しみ、そして、生きる者の苦しみだ」
「生きる苦しみ?」
「愛する者との離別、他者への恨み、尽きぬ欲望、心と体への絶え間ない苦痛、なんとこの世は苦に満ちているのだろう。この身が滅び、この世から消えたら、俺はあらゆる苦痛から救われるのだろうか」
「あ、あの」
 ルシフェルは答えに窮しました。死によって全ての苦痛から救われる、というのは、悪魔が人を堕落させるための一つの常套句でした。そうして、死を選んだ人の想いは、今でも慚愧の念となって、人の世界にべったりとへばり付いたまま、けっして救われることはないのです。
――でも、それをあたしがここで説明しちゃってもいいのかなぁ。
 ルシフェルの下に集う悪魔たちであったなら、一も二もなく死への誘いを囁いたでしょう。彼らの仕事は、人を破滅へと導くことですから。しかし、今回の試みは、別に救世主を亡き者にするためのものではありません。
 ルシフェルにとっても、救世主という存在は、この地上に降りて以来始めて出合う自分と同じ存在でした。神の属性を持ちながら、尚、天界にあらざる者。敵対者である天使とも、手下である悪魔とも、そして、神の似姿である人間とも違う存在。それがどんな者なのか、ルシフェルはとても興味がありました。できるなら味方になって欲しいとも、考えていたのです。
「悪魔よ、俺を殺すか」
「へ?」
「遅かれ、早かれ、人は死ぬ。ここでこうして座って居れば、俺も遠からず死ぬだろう。俺は多くのものを得て、多くの物を捨ててきた。そして、この場所にたどり着いたのだ。だが、俺には解らない。この場所で俺は朽ち果てるべきなのか。それとも、この苦しみ満ちる世界の中で、人を救うために歩き続けねばならぬのか。悪魔よ、お前はどうしたい。俺を殺すか、生かすか」
――そ、それを聞くのは、ホントは、こっちの方なんだけど。
 第二の誘惑として予定していたのは、男が自分から命を危険にさらし、本当に天使が自分を助けるか試みるように仕向ける事だったからです。それが、こっちが何も云う前から、信念を持って、しかも、誘惑者たるルシフェルを試みたのでは、話はまったく反対です。
「どうする」
「ど、どうって」
「殺すか、生かすか」
 男は静かに云いました。しかし、その声には、揺るぎない信念と覚悟の響きがありました。
「こ、殺さないよ」
 男の言葉の迫力にルシフェルは答えました。
「で、でも……でも、さ、何か食べないとどっちにしろ死んじゃうよ。だから、ほら、その辺の石でも何でもパンに変えて食べないと……」
 そして、そこまで云ってもごもごと言葉を濁しました。自分の失敗に気が付いたのです。
 石をパンに変えて食べてみろ、というのは、一番初めに予定していた誘惑だったのです。それを口に出してしまった以上、ここでパンを食べれば、男は誘惑に負けたことになってしまいます。反対に、この誘惑に打ち勝っても、ここでパンを食べなければ、間違いなく死んでしまうでしょう。
 今回のルシフェルの仕事は男を試みることです。正しい試みというのは、それがどれ程言葉巧みに破滅へと導くとしても、何処かに出口を造っておかなければなりません。答えのない袋小路に誘い込み破滅させるならば、その前に、試みられる者が自らその袋小路に入るのか、それとも、正しき道を歩み続けるのか、その部分を試みなくてはならないのです。
 まして、今にも死にかけている人に、死にたくなければ云うことを聞け、では、もはや誘惑ではなく脅迫です。
――困った、どうしよう。
 ルールを無視した試みによって、この世の救い主を滅ぼしたら、間違いなく人の歴史は狂います。そして、狂った歴史は、神の創造した世界とはまったく異なる有り得不可らざる世界を生み出すことになります。それ以前に、ルシフェル自身が、この男の破滅なんて全然望んではいないのです。
「パン、か」
 ルシフェルの想いをよそに、男は地面に転がる丸い石を見つめました。
「あ、別にパンじゃなくてもいいんだけど、何か食べないと本当に死んじゃうから」
「とはいえ、今の俺にはそんな力もない」
 男は呟くように云いました。確かに、もはや生命力さえ尽きようとしている今の状態では、たとえやってみた所で、石をパンに変えるのは不可能でしょう。それを行うのは、実は、この世界の組成そのものを変革する程の大きな力を必要とするのです。
「そ、それじゃ……」
 少し躊躇した後、ルシフェルは、声の調子を変えました。
「あたしが食べ物を持って来てあげる。悪魔の食べ物を、ね」
 何はともかく、ここで男が死んでしまうのだけは絶対に避けなければいけません。
「お前が食べ物を出すというのか」
「うん。ほら」
 ぽんっと魔法のようにルシフェルの手に湯気を立てたお椀が現れました。
「どう、美味しそうでしょう。我慢できずに食べるといい。空腹に負けて貪るがいい。美味しい美味しい地獄の粥だよ」
 いかにも悪魔の囁きっぽくルシフェルは云いました。
 これなら、よほどの愚か者でない限り、悪魔の誘惑であることが解り、食べるのを躊躇するでしょう。ちょっとでも躊躇する台詞を口にしたら、それでとりあえず第一の誘惑をパスした事にしておいて、あとは、無理やりにでも食べ物を口に入れさせようとルシフェルは考えたのです。
――無理やり食べさせるのなら、それは誘惑じゃなくて強制だから大丈夫、だと思う……。
 自分でもインチキ臭いなと感じながらも、無理にそう思うことに決めました。
「さあ、悪魔の粥よ、どうするの」
 ルシフェルは答えを促します。
 男は半眼のまま、相変わらす虚空を見つめています。
 しばらく、間がありました。
 そして。
「悪魔よ」
 男は、ふいにルシフェルへ顔を向けました。落ちくぼんだ眼下の奥に、思いがけず鋭い瞳がありました。
「喰えばどうなる」
「そりゃ、食べれば元気になるよ」
 男の口調に、ルシフェルは、つい素のままで答えてしまいました。
「お前は、それを望むのか」
「え、あの、えっと、死んだら困るけど……」
「困るか」
「うん」
 頷くしかありません。
「喰わねば死ぬか」
「うん」
「死ねば人は救えぬか」
「うん」
「俺は人を救わねばならぬか」
「えっと……うん。救世主なんだから」
「ならば、その粥をくれ」
「へ?」
「どうした。このまま喰わねば死ぬのだろう。なら、たとえ悪魔の糧を喰らっても、生きて人を救わねばならぬ」
「だって、さっき、生きても死んでもどっちでもいいって云ったじゃない」
「解らない、と云ったのだ。生きて人を救うのが俺の道であるならば、俺は生きねばならない。どうした、やはり俺の死を望んでいるのか、悪魔よ」
「ううん。死んじゃ困る……けど」
「なら、その粥を俺に渡すがいい。正直、もうサジを持つ力も……」
 男の言葉が、一瞬途切れました。
「……なくなりそうだ」
 男は弱々しい笑顔を見せました。
――まずい、ホントに死んじゃう。
 命の鼓動がいっそう小さくなっています。
「え、ええと、それじゃ、はい」
 ルシフェルはミルク粥を差し出します。
「……すまんな」
 男はゆっくりと粥をすすります。
 困惑の極みでルシフェルがそれを見つめます。
 一口、二口。
 長い時間をかけて、男は粥を口に運びます。
 ひび割れた唇を小さく空けて、ほんの少し口に含み、ゆっくりと噛んでから飲み込みます。
 そして、また、ほんの少しサジですくって、ゆるゆると口に運びます。
 一口、二口。
 一口ごとに、男の体に生気が甦って来るようです。
 どれ程時間が過ぎたでしょうか、男は空の椀をルシフェルに差し出します。
「ありがとう」
 男はいいました。
「俺の命、まさか悪魔に助けられるとはな」
「良かったね」
 ルシフェルは思わずそう答えました。
「でも、これで良かったのかなぁ」
 それから、顔をしかめ首を捻ります。
「同じだ」
 男は云いました。
「え」
「森を見よ」
「森?」
 ルシフェルはしわぶく密林を見回します。
「それが悪魔の食べ物であろうと、俺はそれを喰らい、己の生きる糧とした。喰わねば死ぬのだから。森の獣が他者の命を喰らい、木々がその骸を己の滋養とするように。人の世もまた同じ。互いに互いを貪りながら、人の世は流れて行く。それ故に、この世は苦なのだ。己が苦しみから逃れるために、他者を苦しめ、己の命を守るために他者の命を奪う。まこと、我らは無数の命を喰らい、無限の骸の上に立つ」
 男は立ち上がりました。
「悪魔よ」
「ん、なに」
「この世界、どう見る」
 男が、また問いかけました。
 ルシフェルは、ぱちくりと大きく瞬きしました。それから、むせ返るような密林をぐるりと見渡します。
 無数の命が散り、無数の命が生まれ続ける熱帯のジャングル。
 苦痛と恐怖と怨嗟と歓喜の入り交じる生命の坩堝。
 苦しみは苦しみを産み、己の苦しみは、全ての苦しみとなります。
 恐怖は恐怖を増し、心の内の恐れ、森いっぱいの戦慄に変わります。
 恨みが恨みを呼び、一つの憎悪、無数の怨嗟となって響きます。
 そして、小さな命の誕生が大きな歓喜のうねりとなり、無限に広がる生命の連鎖を称えます。
 それこそが苦なのだとしても。
 苦がそれなのだとしても。
 それはわたしである。
 わたしはそれである。
 世界が咳きます。
「きれい」
 ルシフェルは答えます。
「きれいか」
「うん」
「好きか、この世界が」
「うん、好き」
「この苦しみに満ちた世界が好きか」
「うん、好き。だって、あたしは悪魔だもん」
「悪魔は、この苦の世界が好きか」
「うん。あたしは動き続けるこの世界が好き」
「俺も悪魔か」
「え?」
「悪魔より命を貰った俺もまた悪魔か」
「えっと」
 ちょっと考えてから、ルシフェルは答えます。
「うん。あなたは悪魔」
「俺は悪魔か」
「うん、悪魔の食べ物を食べて、悪魔に命を貰ったあなたは悪魔」
「悪魔なればこそ、俺はこの世界に生きよう。悪魔故に、この世に生きよう。苦しみ満ちたこの世に生きよう。世界が苦であるならば、苦に生きる人こそが世界なのだ。
 だから。
 俺は告げねばならない。
 世界はこれほど美しいのだと。
 俺は祈らねばならぬ。
 人よ、人よ、歩む人よ、苦の宇宙を歩む人よ、幸あれ、と」
「うん」
 ルシフェルが大きく頷きます。
「それでいいんだよ、きっと」
「ならば、良い」
 男の人が笑いました。
「悪魔よ、俺は行くぞ」
「うん」
 ルシフェルは頷きます。
「また、会おうね」
「おう、また会おう、悪魔よ」
 それだけ云うと、男は振り返ることなく、密林の向こうへ歩み始めました。
 人々の住む世界へと。
「うん、これで良いんだね」
 ルシフェルは、一人小さく微笑みました。

「全然、良くないっ!」
 突然、ジャングルに時告げる喇叭のような声が響き渡りました。
「あ、ミ、ミカ姉……」
「ミカ姉、じゃない」
 大天使ミカエルでした。
「なにやってんの、あんたは」
「だって、食べちゃったんだもん」
「食べちゃった、じゃないでしょ。なんであんたはそうやって、やたらめった、いろんなものを人間に食べさせるのよ。また天界に戦でも起こさせる気なの」
「前の時とは全然違うよぉ」
「そうね、もっと悪いわね。一体、何だって、こんなよそ様の所まで出張ってってやっかいごとを引き起こすのよ」
「よそ様?」
 きょとんとした顔でルシフェルが聞き返します。
「何が面白くて、こんな多神教世界にちょっかい出したのよ。地元の悪魔からクレームがあったから大慌てで、来てみれば……」
「多神教って、あたしが会ったのは、神の子だよ」
「莫迦なこと云わないで。やがて来る方は、ベツレヘムでお生まれになって、ナザレの男と呼ばれる予定なの。こんな場所にいるわけ無いでしょう」
「こんな場所?」
 ルシフェルは慌てて辺りを見回します。
「ここ、ヨルダンの荒野じゃないの?」
「どこの世界にこんな生命溢れる荒野があるのよ」
「で、でも、あたしは神様から、荒野で救世主となる者を試みろって云われたから」
「それで」
「何処にいるのって聞いたら、起きたらすぐ気配で分かるって云われたから」
「云われたから?」
「だ、だから、気配を探したらすぐ見つかって……」
 何がなんだか解らなくなって、ルシフェルはしどろもどろに答えます。
「そりゃ、そうでしょうね」
 ミカエルは腕を組んで、ルシフェルを見下ろします。
「そいで、ここに来てみたらちゃんといて」
「だから、なんでこんな所に救世主がいるのよっ」
「知らないよぉ。ここにしかいなかったんだもん」
「確かに、インドにしかいないでしょうね、この時代には」
 ミカエルは頭を横に振って、大きくため息を吐きます。
「だいたい、なんだって、まだ時も来てないのに、勝手に封印解いて地獄の牢獄から抜け出したの」
「だって、だって、起きたら、約束の時間に遅れそうだったから……って、え、来てない?インド?」
 ルシフェルは、我に返って周りを見回します。それから、目をまん丸にしてミカエルに訊ねます。
「なんで、あたしインドにいるの?」
「って、それはこっちの台詞よっ」
 また、ミカエルの怒声が密林に響きます。
「何が哀しくて……何が哀しくて、私らが釈迦国の王子の覚醒を手伝わなきゃならないのよ、この、この……躓きの石っ!」
 
 イエス・キリストが生まれる五百年程昔のお話です。

そして……

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©Yuichi Furuya 2005

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