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ルシフェルによる福音書

この預言の言葉を識る者と、これを聴き、その中に書かれている意味に気づく者は者はさいわいである。時が近づいているからである。

――ルシフェルの黙示録

追放 〜エデンにて〜

 天界はてんてこ舞いでした。

 天界とは創造主である神様やその使いである天使が住む場所です。もちろん、人の住む街とは違います。人は神様や天使の本当の姿を観る事は出来ませんし、その暮らしを識る事も出来ません。そもそも、神様や天使というのは空間とか時とかで測れる場所に居ないのですから、何時、何処でという事さえ本当は意味を持っていないのです。創造主とか天使たちといった呼び名や暮らしとか住む場所とかそうした言葉も、実は何も指してはいないのかも知れません。それでも、人は言葉によって、自分の知らない何かを表すことが出来ます。創造主とか天界といった言葉によって、人は神々しい光を纏った神様を思い描き、白い羽根を広げた天使たちが飛び交う様子を想像する事が出来るのです。
 それ故に、この天と人と世界の物語を人の言葉で書き記しましょう。人の言葉の向こうにある、本当の物語を伝えるために。

 さて、それが何であれとりあえず言葉で表せば、現在の天界は、てんてこ舞いなのでした。
「ミカ姉ちゃんの莫迦!」
「莫迦って、あんた、自分が何云ってるか解ってるの!」
 天界の静寂とはあまりに不似合いで場違いな怒声が飛び交います。
 空を舞う智天使たちも、普段の落ち着きをすっかり忘れて右往左往しています。
「わざとじゃないんだし、そんなに悪い事じゃないじゃないか!」
「わざとであろうと無かろうと、事は引き起こされてしまったのだし、それはこの新しい人間世界を変質させるに充分すぎる大問題なの。あんたのマヌケな蛇が、その存在自体を未来から過去に至るまで抹消されなかっただけ、有り難いと思いなさい」
 烈火の如く怒っているのは、大天使のミカエルです。天界で最も神様に近い天使のひとりです。本当は神様に近くなればなる程、人間の理解から遠ざかり、その言葉を言葉として理解したり、その姿を想像したりすることは困難になります。しかし、ミカエルだけは、人間と深く関わる役割を担うために、人に近い属性を与えられていているので、人前に現れたり、天の言葉を告げたりすることが出来ました。それで、天界での会話も、こうして言葉として記すことが出来るのです。
 そのミカエルの前でふくれっ面で立っているのは、天界で一番若い天使ルシフェルでした。光り輝く六対の翼を持つ美しい天使です。まばゆい光に包まれた天界の中でも、その燦めきは色褪せることはありません。天界で最上位の天使、熾天使。ルシフェルは、その熾天使の中でも際だって美しい天使でした。
 ルシフェルの白い衣には、一匹の年老いた蛇が巻き付いておりました。永遠と再生と知恵の徴表としての蛇です。天界で最も古い者のひとりで、何時創られ、何処から来たのか知るものは殆どいません。世界が創造される前、神様の霊が漂っていた混沌の海に住んでいたのだと噂する者もいました。
 その蛇が、愛嬌のあるまん丸な目を伏せて、ションボリとしています。それもその筈です。蛇は、今、この天界から追放されようとしていたのです。

*****

 事の起こりはこうでした。
 ある日、新しく創られたエデンの園にルシフェルが遊びに行ったときのことでした。
「うん、いいところ」
 ルシフェルは嬉しそうに云いました。小高い丘の上の園でした。美しい花が咲き乱れ、果物がたわわに実る木々が沢山生えていました。園の真ん中からは一本の川が流れています。川は、丘を過ぎ、遙か地平線まで流れ出て、見渡す世界を潤します。
 ルシフェルは、この新しい楽園を司るようにと神様から命じられました。
 この園には人がいる。人は、これまでの創造物とは違う、我の似姿をした者である。この特別の創造物の住まう地をお前にまかせよう、そう神様はルシフェルにいったのです。
 人。
 神様の姿を映したと云われる新しい創造物。それは一体どんなモノだろう。ルシフェルはワクワクしながら園へ入りました。
「あ、いた」
 神様からアダムと名付けられた人でした。
「こんにちは」
 ルシフェルは元気に挨拶しました。
 アダムはルシフェルの姿を見て、畏れ平伏しました。
「どう元気」
 ルシフェルが訊ねます。
 アダムは顔を伏したまま肯きます。
「ここ気に入った」
 ルシフェルがまた訊ねます。
 アダムは顔を伏したまま肯きます。
「なんか困ったことない」
 アダムは、今度は首を横に振りました。けれど、顔は伏したままでした。
――これなら鳥や獣の方がよっぽど面白い。
 ルシフェルはちょっと口を尖らせました。
「んじゃね」
 ルシフェルはその場を離れ、もう一人の人を探しに行きました。
「きっと、面白いところは、全部もう一人に分けちゃったんだよ」
 ルシフェルは、肩の辺りに頭をもたげている蛇に云いました。
「どうだか、なあ」
 蛇はちょっと首を傾げました。
 神様はアダムの手助けをするために、その肋骨から女性を創りました。正確には、元々のあった人の原型から、もうひとりの人を造り、アダムからその属する性質の一部を引き抜いて、新しく創った方に移したのです。こうしないと全く同じ人がふたり出来てしまうからです。全く同じということは、天界やこの園のような永遠普遍の場所では、ひとりであるのと同じことです。
「人がひとりでいるのは良くない」
 それで、神様はふたりの人の属性をわざと変えたのです。
「真面目な人と面白い人に」
 ルシフェルは自信満々に云いました。
「それも、なあ」
 蛇はまた唸りました。どう考えても創造主である神様がそんなことをする理由が見つかりません。
「あ、いた」
 そうこうするうちに、ルシフェルはもうひとりの人を見つけました。女性でした。名前はまだありません。
「こんにちは」
 ルシフェルは声を掛けました。

「つまんなかったね」
 ルシフェルはとぼとぼとエデンの園を後にします。結局、女の反応もアダムと同じだったのです。蛇は、ルシフェルのがっかりした顔をじっと見つめ、それから、あるを決心をしたのです。

 次の日、蛇はひとりでエデンの園へ向かいました。
「ありゃ、知恵の実食べてねえに違いない」
 蛇は呟ききました。
「神様の似姿なら、もっと会話も出来て当然だ。もし、他の獣や鳥と同じだとしたら、寧ろ知恵の実なんて食べなくても、もうちょっとましな反応をするだろうし。ありゃ、天使の心を持ってながら、知恵を持ってねえに違いない」
 知恵、それは、自分と世界とを感じ、それを判断し、それを理解する力。その力によって、新しい世界と新しい自分を造りだすことが出来るのです。そして、その知恵をもたらす木の実は、エデンの園の真ん中にあるのです。
「こりゃ、なんか手違いがあったに違いねえ。いずれ、神様もあの実を食べさせようとは思ってたんだろ」
 蛇は自分の言葉に肯きました。

「こんちわ」
 蛇は知恵の木の枝からぶら下がり、通りがかった女に声を掛けました。
「はい、こんにちは」
 女は返事をしました。エデンの園の全ての生き物は人を助けるために置かれているのです。だから、ルシフェルたち天使と会うときと異なり、園の中の生き物とであれば人も普通に会話は出来るのです。
「お前さん、ここらにある木の実は食べちゃいけねえって云われたのかね」
 蛇は念のため聞きました。
「いえ、私たちは、ここを耕し守るようにいわれました。そして『園の全ての木からとって食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べれば死んでしまう』と神様おっしゃいました」
「ふうん。やっぱり何処で誤解があったんだな」
 蛇は思いました。神様に命じられたと女は云いましたが、創造主である神様が直接言葉を語ることはあり得ません。いったとしても、それこそ知恵の実を食べていない者には、その言葉は理解出来ないでしょう。神様の言葉を伝えるには、その間をつなぐ御使いが必要なのです。神様が間違うことは原理的にあり得ませんから、きっとその御使いが間違えて伝えたのだろう、蛇はそう考えたのです。
「そりゃ、言い違いか聞き違いだよ。知恵の実は食べたからって、死ぬことはない。現に、天使どもはみんな食べてるが、頭が良くなる奴はいても、死んだ奴はいねえ」
「でも」
 女は戸惑いました。
「何なら、おいらが食べて見せようか」
 蛇はくるくると尻尾で知恵の実を一つ取ると、ぱくりと食べました。
 光。
 あらゆる感覚が光に包まれまれます。
 世界が感じられます。
 幾層にも幾層にも重なって、互いが互いを映し合う、多重構造の鏡。
 その中の一つであると同時に、その全てである自分。
 自分が宇宙を観ているのか、宇宙が自分を観ているのか、それとも、その両方なのかも知れません。
「うん、美味い」
 蛇は自分の意識が多元宇宙の隅々まで広がるのを感じていました。
「ほれ、全然なんともねえだろ。それどころか、頭ん中がぐぐっと広がるよ。ひとつ食べてみてご覧」
 蛇はまた尻尾でくるくると知恵の実を巻き取ると、女に渡しました。
「じゃあ、アダムにも食べさせよう」
 女は云いました。
「そりゃいい考えだ。ほれ、もう一つ」

 そして、アダムと女は禁断の木の実を食べてしまったのです。

*****

「別にいいじゃん。食べて死ぬわけでもないし、ねえ」
 ルシフェルは蛇の頭を撫でながら云いました。
「死ぬのよ」
 ミカエルが恐い顔で云いました。
「死ぬって」
「死ぬんかね」
 ルシフェルと蛇は驚きました。
「だ、だって、蛇さん死ななかったじゃない」
「あんたの蛇は、地に住まう者でも土から創られた者でもないでしょ。いい、あの実を食べた瞬間に、あのふたりは知ってしまったの。自分たちが、土より創られた者であることを。土より創られた者は土に還らなくてはならない。塵は塵に戻らねばならない」
「な、な、何で」
 ルシフェルは困惑して云いました。
「あのエデンの園のために創られたもう一つの世界があるの知ってるでしょ。空間と時間から成る世界。その世界の時間軸上の変化によってエデンは形成され、エデンの園で行われたことが、その世界に還元される。その世界は基本的に生成変化する世界。塵は塵に還る世界なの」
「今までだって、あっちの世界の影響は受けてたんでしょ。何で今更」
「だから、知ってしまったから」
 ミカエルが指を突きつけます。
「自分たちが、空間と時間によって創られた存在であることを知ってしまったから。生成変化する世界より生まれた者であることを知ってしまったから。時より生まれた者は時に還らなければならない。なぜなら、存在者とは常に自分の存在しない時間を有しているから。今、ここにいるってことは、さっきここにいなかった自分を常に知ること。そして、まだ自分のいない明日へ向かって、今の自分を過去という時間へ常に葬り続けることなの。流れ続ける時の中に生まれるために、死に続けなければならない」
「屁理屈!」
 ルシフェルが短く叫びます。
「へ、へり……」
「屁理屈じゃないか。それじゃ、どうして知恵の木がエデンの園の真ん中にあったの」
「そ、それは」
「食べちゃ駄目なら、植えなきゃいいのに。それに、隣には命の実があるじゃん。あれ食べれば、別に塵に還らなくてもいいじゃんか」
「命の実はよけい食べては駄目なの。世界の整合性が取れなくなるから。なのに、知恵の実を食べてしまった以上、命の実に気が付き、食べてしまう危険がある。それが問題なの」
「やっぱり変だよ。何でそんなの、わざわざあんな所に置いといたの」
「それには深い理由があるの。あなたにはまだ解らないでしょうけど」
「ふん。年取ってるからって、威張ってる」
「と、年取ってるって、それは関係ないでしょ」
「ミカ姉ちゃんの大年増」
「と、年増ぁ」
「お年寄りは説教くさくなるんだもん」
「誰がお年寄りだっ!」
「ミカ姉ちゃんは嫉妬してるんだ。あたしがエデンの園の司になったから。ミカ姉ちゃんだって人に近いのに、自分が司にならなかったから、悔しいんだ」
「悔しくなんてないわよ」
「うそ、悔しいんだ。ねたましいんだ。あたしの若さに嫉妬してるんだ」
「だから、若さは関係ない!」
「ほら、ムキになってる」
「ち、違うって云ってるでしょ」
「違わないよ」
「違う」
「違わない」
「だから違うって」
「違わないよ。やーい、悔しんぼ!」
「く、く……くやしんぼ?」
 そこで、ふとミカエルは我に返りました。
――なんで私がこんな子供じみた言い合いをせねばならないのか。
「とにかくね、あんたとその蛇がしでかしたことは、あっちの世界の進化の過程に重大な影響を及ぼしたの。あっちだけじゃない、この天界自身にもね」
 ミカエルは、今度はちょっとゆっくりと云いました。
「天界にも?」
「そう、予定調和が崩れてしまう」
「予定調和?」
「神様が創った天界と人の世界の計画」
「計画?」
「そう、神様による多元世界の設計図。神様が人にとってどういう神様となるかという事に関する予定」
「予定?」
 ルシフェルは首を傾げました。
「予定って、どうして神様が予定なんてするの」
「あ、それは」
 ミカエルの顔色が変わります。
「だってさ、予定って、今こうで、次にこうなるからって予測して立てるもんだよね」
 ルシフェルは、先ほどまでのふくれっ面も忘れたように、目を輝かせながら続けます。
「そいでさ、次にこうなるってことは、今、そうじゃないってことでしょ。でさ、それが崩れることで、天界も影響受けるってことは、つまり、神様も……」
「ここより立ち去れ、躓きの石よ」
 ミカエルが、突然、ルシフェルの言葉をさえぎりました。今までと全く異なる冷たく強い口調でした。
「蛇よ、汝はこの事をしたので、全ての家畜、野の全ての獣の中で、最も呪われる。お前は人を塵に返したのだから、塵を食べよ。お前は人を騙したのだから、人はお前の頭を砕き、お前は人のかかとを砕く。
 天使よ、汝の蛇がこの事を為したのだから、全ての天使、御使いのうちで、最も呪われる。お前は、人に人間の苦しみをもたらしたのだから、人間の嘆きと苦痛を食べよ。女は苦しんで子を産む。汝はその苦しみの因となる。人間は顔に汗してパンを食べ、やがて土に還る。人間は塵だから塵に還る。汝はその塵の悲しみを喰らえ」
 天界に響く喇叭のような、何者も逆らうことの出来ない圧倒的な声でした。戦う天使としてのミカエルの声です。
 ルシフェルは身構えました。ミカエルが本気で怒ったら、呑気に構えているわけにはいきません。
 ミカエルがゆっくりとルシフェルに近づきます。拳を握り、こちらを睨み返すルシフェルに向かって、ミカエルが口を開きます。
「逃げなさい」
 小さな囁きでした。
「へ?」
 ルシフェルはきょとんとミカエルを見返します。
「逃げるぞい」
 ふいに、蛇がルシフェルを引っ張りました。その節くれた鱗の間から、大きな翼が生えています。
「え、ちょっと」
「いいから、こりゃ潮時だぞい」
 ずるずるとルシフェルは引き摺られてゆきます。
「逃がすな。追え」
 ミカエルの声はふたたび戦う天使に戻っています。その声が響いた途端に、何万、何千の天使が天界に現れました。
「み、ミカ姉ちゃん」
 何が何だか解らないまま、ルシフェルは蛇に引き摺られます。
「いいから、ここは逃げるってもんだ」
 蛇が云います。
 無数の天使たちが、一斉にルシフェルめがけて集まってきます。
「もう、どうなってるの」
「逃がすな。捕らえよ」
 ミカエルが冷たく命令します。
「こんなの卑怯だ」
 ルシフェルを引き摺る蛇の前にも、無数の天使が立ちふさがります。
「こりゃ、まずいな」
 蛇が云いました。
「抵抗するな。抵抗すれば、こちらも容赦はしない」
「何云って……」
「そんじゃ、抵抗しなけりゃどうなんだね」
 ルシフェルの言葉をさえぎるように蛇はミカエルに問いかけます。
「ふたりとも冥界の永久凍土に封印します」
「本気かい、ミカエルさん」
 蛇の体からゆらりと殺気が滲みます。
「おいらの仕事はこの娘を護ることだ。それ解ってて云ってんかね」
「黙れ、愚かな古き者よ。守護たればこそ、なぜに人を堕落させたのか」
「口開かせる気かね。それとも、翼開かせる気かね」
「捕らえよ」
 間髪を置かず、ミカエルが命じます。
 幾筋もの閃光が、ルシフェルに集中します。
 蛇が黒い蝙蝠の翼でルシフェルを覆います。
 輝く光が太古の暗黒に吸い込まれます。
 一瞬遅れて、光が弾けます。
 世界が白い光に満たされます。
 目も眩む輝きは、風となって広がります。
 その中心に、蛇の翼に包まれたルシフェルが立っていました。
「蛇さん!」
「大丈夫、かね」
 蛇が弱々しく答えます。
「こりゃ、あっちは本気だぞい」
「そんなことより、蛇さん大丈夫」
 ルシフェルが心配そうに蛇を見ます。翼が先ほどの閃光で酷く傷ついているのに気がつきました。
 ずるり。
 蛇は力なくルシフェルの肩からずり落ちそうになります。慌てて、ルシフェルは手を添えて蛇を支えます
「蛇さん……」
「回復の機会を与えるな。捕らえよっ」
 背後でミカエルの号令が響きます。
 天使たちが光に包まれます。
「非道いっ」
 ルシフェルの体が光に包まれました。六対の白い羽根が、光となって広がります。光が嵐となって舞い上がります。天使たちの光をかき消す程の強い光です。
「防御」
 ミカエルが叫びます
 天使たちは翼で体を覆います。けれど、圧倒的な光に大半の天使は吹き飛ばされてゆきます。
 先ほどの天使たちの閃光とは異なり、ルシフェルの光は、広がる程に強まってゆきます。光の波は互いに重なり、波と波の間に、さらに別の波が被り、ありとあらゆる波長の光が互いに干渉しながら、新しい波動を産みだしているのです。
「これ程とは」
 絶対の波動の嵐の中で、ミカエルが呟ききます。もはや、それは光ですらなくなりました。波はノイズの嵐となり、波と波の間を別の波が揺れ動き、その幅がますます狭く密になり、やがて波と波との重なりに一部の隙もなくなりました。
「完全な無限は無に還る」
 世界が闇に包まれました。
 光の波動が重なり続け、遂に空間とぴったり重なった瞬間、全ての光は消え去り、寂寞たる虚空だけが残ったのです。時すらも、その刻みを止める絶対の暗黒。
「されど、主は光を闇より分けられた」
 ミカエルが遙か地平を睨みます。
 闇が一点に収束します。
 翼を持った人の影がありました。
 天使の影。
 黒い六対の翼の天使。
 月光の仄白い顔が闇の中に浮かびます。
 鈍い光沢を放つ節くれた鱗を持つ黒い蛇が、その細い四肢に巻き付いています。
 魂さえ吸い込まれそうな、美しい天使。
 魂さえ凍り付きそうな、畏るべき天使。
 闇の天使、ルシフェルです。
「輝ける明星よ」
 ミカエルは呟きます。
「いかにして天より堕ちしか」
 ルシフェルがじっとミカエルを見返します。
 黒い瞳です。
 深宇宙の深淵のような透明無限な漆黒の闇。
 その闇の瞳を、ミカエルの碧い瞳が見つめ返します。
 光と豊穣、紺碧の海色の瞳
 喇叭が響きます。
 天空の喇叭です。
 ミカエルは動きません。
 ルシフェルも動きません。
 どれほどの時間が流れたでしょう。
 もしかしたら、時間など流れていないのかも知れません。
 ふいにルシフェルの唇が開きます。
「へそ」
「?」
 ミカエルの顔に困惑が浮かびます。
「へそ咬んで死んじゃえ、莫迦天使っ!」
 ミカエルの目が点になります。
「あっかんべーっだ!」
 駄目を押すように、あかんべをすると、ルシフェルは黒い翼をはためかせ、時空の地平の彼方へと消えてゆきました。
 ミカエルは去りゆくルシフェルを呆然と見送ります。
 頭の中が真っ白になります。まるで、闇を反転したように。
 理性と感情が雁字搦めになっています。
 どれほどの時が過ぎたでしょう。
 ミカエルにとったら、もう、どうでもいいことかも知れません。
 本当は知っていたのです。これが予定されていた結末であることを。ミカエルだけが神様から知らされていた結末。ルシフェルとその蛇が天界を去るであろう事。それが、人の世界と天界とを変えてゆく事。その変化に、ミカエルもまた大きく関わるという事。そして、それもまた、世界の必然であるという事もミカエルは知っていたのです。
――その必然のままに、蛇は人を誘惑し、人はエデンより追放され、ルシフェルは天より堕ちた……に、しては、最後のあれは何なんだろうか。主よ、主よ、なぜ私は、あのような、あんな、あんな、あれじゃ、あんなの、なんなの、結局、要するに、とどのつまりは、これじゃ全く……子供の喧嘩?
 ぷつん。
 感情が理性を凌駕しました。
 戦う天使の声にならない怒りの声が、光満ちあふれる天界に響き渡りました。
 あまりの悔しさに涙すら混じった怒声が。

 神様は、これを観てよしとされました。

はじまりのはじまり

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©Yuichi Furuya 2005

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