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伝道  〜ガダラの夜明け〜

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「ええっ、何でだめなの」
 大きな湖の畔の小さな村に、転がした鈴を踏んづけて潰れてしまったような悲痛な声が響きました。
「野うさぎの肉は使っちゃいけないでしょ」
「うう、うさぎの肉パイ美味しいのに。かりかりの生地にやわらかいお肉。チーズもはさんで」
「それは、もっとだめ!!」
「ううぅ……うさぎ、うさぎ……うさぎ……うさ……う……うなぎ!
「うなぎも駄目。鱗が無いでしょ」
「なんで?うなぎには鱗あるよ」
「この時代の人間はまだそれを知らない、だからだめ」
「うう、うなぎ……んじゃ、なまずは?」
「って、なまずをどうする気なの」
「え、ええと、なまず肉のパイチーズ味?」
「それを、本っ気でイエス様に食べさせる気なの、マリア」
「マルタの意地悪っ。さっきからだめ、だめって」
「あんたが、この辺の人間が食べちゃだめなものばかり持ってくるからでしょ」
 背の高い整った顔の女の人が手を腰に当てて声を荒げます。その視線の先には、小柄な少女がふくれっ面をしていました。
 マグダラ村のマルタとマリアの姉妹です。
「ウサギの肉パイ、うなぎの蒲焼、いのししの牡丹鍋」
 マリアが口を尖らせてぶちぶち云います。
「そもそも、蒲焼はないっ。牡丹鍋も!」
「んじゃ、イモリの黒焼き、こうもりのスープ、イボガエルの姿蒸し」
「それじゃ、黒魔術でしょ……まあ、あんたの場合は合ってるけど」
「そいじゃ、お酒、お魚、お野菜とかは?」
「なんか、初っぱなから違ってる気もするけど、まだ増しね。魚は鱗が有れば大丈夫よ」
「んじゃ、白酒、黒酒、清酒に粕酒。ご飯山盛りで、お水を汲んで、鯛に白菜、鰹、昆布、伊予柑、んでもって盛り塩っと」
「神前にでも供える気?」
「そうだよ」
「え?あ、ああ、そうね、そうだわ。て、違う!違わないけど、間違ってる!」
「んじゃ、香魚の干物、鹿の頭、いのししの頭とか?」
「違う、違う、根本的に間違ってる」
「もう、面倒くさいなぁ。誰が決めたの。こんな莫迦な規則」
「誰って……」
 言いかけて、マルタが鼻をちょっとひくつかせ。
「待って、何この臭い」
 竈のある奥の部屋から、なにやら黒い煙が流れ込んできています。
「あっ、ぱっ、がっ」
 マリアが言葉にならない声を上げ、転がるように竈にすっとんで行きます。
「!!」
 そして、竈の方からから悲痛なうめき声。
 やがて、小さな影が、一段と縮こまって戻ってきました。
「お、おねぇちゃん」
「ば……」
 莫迦、そう云いかけてマルタは言葉を飲み込みました。
「ぱ……」
 夕方の仔山羊のような哀れを誘う声。
「ぱ、ぱ、ぱ」
 形のよい眉毛が、筆で書いたような見事な八の字を描きます。
 手に、何かが燃え尽きたような真っ黒なモノが乗っています。
 漆黒の瞳が涙に歪みます。
「ぱ、ぱ、ぱんがっ……時間が……みんなで……お舟で……イエスさんと……お昼……」
「ああぁぁ、もう、わかった。皆まで言わなくていいから。私が焼き直して、お昼過ぎに持っていってあげるから。あんたは先にイエスさんと行きなさいよ。今日は、ヤコブさん達が漁に出る日でしょ。私はそれに乗せていってもらうわ」
「ほんと」
 曇天にさしたひとすじの光芒のように、マリアの顔が笑顔で輝きます。
 嗚呼。
 その喜びに満ちた表情に、マルタは何だかくらくらと眩暈を覚え、我知らずマリアをぎゅっと抱きしめそうになって……それから、はたと我に返りました。
――何をしているのだ、私は。人の姿となり、その力能を極限まで抑えているとはいえ、天界の守護者、退魔の炎と恐れられた四大天使の一人であるこの私が、この躓きの石に対して何をしようとしているのだ。
「何してんの」
 両の手を半ば広げたまま固まってしまったマルタを見上げ、マリアがきょとんとした顔で尋ねます。
「あ、え?ああ、そう、は、早く、行った方がい、い、いいわ、わよ。イエス様がまってるでしょ」
 白い面を真っ赤にして、ぎくしゃくとマルタは答えます。
「あ、そうか」
 無邪気に。
 あまりにも素直に。
「そだね、早く行かないと、置いてかれるかも。ペテロがなんか云い出して」
 一片の疑いも持たずに、マリアは急にそわそわしだします。
「せっかくのピクニックだもん。向こう岸までピクニック。イエスさんとピクニック!」
 ちょっとほっぺを赤くして、歌うようにつぶやきながらくるっと廻って。
「んじゃ、行くね」
 ふわりと戸口に下げた麻布が翻りました。

「こりゃ、たまげた。すごい人集りだ」
 漣の広がるガリラヤの湖畔に、太い声が響きました。見事な髯をたくわえた岩のようなごつごつした大男でした。
「そう?」
 その横にかごを抱えたマリアが立っています。
「そうだろうが。お前の村より多いんじゃねえか」
「ペテロの村だってちっちゃいじゃん」
「全く素直じゃねえな。吃驚したんなら、そう云えばいい」
 イエスの一番弟子、ペテロでした。ペテロは、上からのぞき込むようにマリアを見下ろします。
「違うってば」
「まあ、いいさ。それより見て見ろ。きっと、皆、我らが主の行いに感動して集まってきたんだぜ」
「そうかなぁ」
「そうとも。この前、うちの婆様助けて下さって以来、町じゃすごい評判なんだぜ」
「ペテロ」
 マリアの後ろに痩身の男が立っていました。
「い、いや、主よ、主よ、違います。別に俺が、いえ、私が吹いて回った訳じゃありません。そりゃ、何人か親しいのには話しましたが」
 慌てたペテロを見て、イエスは少しだけ困ったような笑みを浮かべました。
「それにしても、確かに大勢ですね」
 イエスはそう呟いて、湖畔に沿って町へと続く石畳を眺めました。 紺青のガリラヤ湖の漣が、とぷん、とぷんと寄せ返しています。町にさしかかる辺りから道は波打ち際に迫り出して、小さな港になっていました。朝一番の漁から帰ってきた木舟、これから湖に繰り出そうと白い帆を張る漁師、対岸の町から来た積み荷を降ろす商船。道ばたでパンや魚を焼き漁師や人足に声をかける屋台の売り子。
 けれど、そんな港の活気とは別に、港の広場には奇妙な一団がありました。
 老若男女。
 頑強な大男から杖に縋るように立つ老婆、紫の衣を羽織った裕福な商人、襤褸を指先まで幾重にも纏った病人、赤子を抱いた痩せた母親、金の粉で髪を光らす濃いアイシャドーの女、脛まである編み上げのサンダルに羊毛のトーガをまとったローマ風の男さえ混じっていました。ガリラヤの雑踏をそのままこの場所に詰め込めたような、取留めの無い民衆。それが、何をするでもなく、港の片隅に屯しているのです。
 普段は誰彼構わず陽気に声を掛ける屋台の売子も、言葉少なに、時折そちらに訝し気な視線を走らせるだけです。
 イエス達が近づく間にも、細い路地から、一人また一人と人影が現れ、その集団に交じっていきます。
「おお、イエスだ」
 ふいに、民衆の中から声が挙がりました。
 ざわり。
 その声に人々が一斉にこちらを振り返りまます。
「イエス様?」
 ペテロが少し怪訝な顔をしました。イエスがそれに小さく頷きます。
「そ、そいじゃ、早く行くとしましょう。アンデレが船着き場で待ってるはずです」
 不安に駆られたように、ペテロは早口でイエスを促します。
「そうですね、行きましょう」
「はい。おおい、イエス様が通られる。道を開けてくれ」
「イエス」
「救い主イエス」
「ユダヤの王イエス」
「イエス」
「イエス」
 騒めきが広がります。それは、しかし、オリーブ山に集まった民衆のような希望と期待を含んだ賛美とも、ナザレでの、恐れと非難の怒声とも違う、なにか無機質で機械的な反応でした。
「な、何だってんだ」
 ペテロが困惑した声を上げます。群衆の騒めきは大きくなりましたが、道を空ける気配はありません。
「イエス様が通れないじゃないか。すまないが、道を空けて……」
 イエスが右手を伸ばしペテロを制しました。
 そして、無言で静かに一歩進みます。
 ず。
 人垣が左右に分かれました。
「モーゼさんみたいだね」
 マリアが呟きます。
 まるでイエスを避けるように、左右に人が分かれます。
「なんだんだ、この連中は」
「だから、さっきから云ってるのに」
「何を」
「何さ」
「……」
「……」
 なんと無く尻つぼみに会話が途切れた二人は、薄気味悪そうに両側に分かれた群衆を横目で見ながら、イエスの後を追いかけます。
 岸壁からガリラヤ湖に桟橋が延びていました。桟橋の袂にも人が溢れています。
 イエスが湖畔の石畳から桟橋に進むと、人垣もそれに合わせて道を開きます。岸辺の何人かが押し出されて波打ち際の砂利に落ちましたが、そちらを振り返る人はいません。
「なんだかヤバそうですぜ。急ぎましょう」
 ペテロが鋭くささやきます。
「お待ちください。イエス様」
 イエスが桟橋へ一歩踏み出そうとすると、民衆の中から声をかける者がありました。
「なんだ、新入りじゃねえか」
 ペテロの云うとおり、昨日、イエスに弟子入りを申し出た男でした。キプロスの島から出てきたという若者でした。
「お待ちください。弟子になりたいという者を連れてきたのです。是非、会ってお話を聞いてください」
 新弟子はイエスの横にすり寄ると、大仰な仕草でイエスの背に手を回し、戻るように促します。
「お前、何勝手に」
「いえ、いいでしょう。こちらの方ですね」
 イエスはペテロに軽く視線を向けたあと、桟橋を離れ、民衆の先頭に立つ男に向かって云いました。
「おお、イエス様、ご無沙汰しております」
 長い房が垂れる外套を肩に掛けた男が両手を広げて、大げさに声を上げました。
「あ、あんた」
 マリアが嫌そうな声を上げました。
「イエスさんに言い負かされて逃げてった人!」
 マリアが民衆に捕まった時、イエスに難題を持ちかけた律法家でした。
「五月蠅い。お前のような者でもまだ側に置いてもらえるのだ。感謝して黙っていろ、この躓きの石が」
 一瞬、マリアの目が鋭くなりました。それから、ちょっと眉を顰め、訝しげな表情で新弟子と律法家を交互に眺めました。
「ふーん」
「貴方の名声は、ガリラヤ中に広まっていますよ、イエス様」
 律法家はマリアを無視して、イエスに話しかけます。
「見てご覧なさい。皆、貴方を称え、貴方を慕い、貴方に付き従おうとしています。無論、この私も。私を弟子にすれば何かと便利ですよ。エルサレムだろうが何処だろうが、遠慮なく布教が出来るでしょう」
「狐には穴があり、鳥に巣がある、しかし、人の子には枕する場所もない」
 イエスは静かに呟きました。
「ですから、私が居れば、そんな心配は無用なんですよ」
「そうですよ、イエス様。この方はエルサレムでも名の知れた方ですよ。私は役に立つと思いますが」
 イエスの横から新弟子が声を上げました。
「行きましょう。ここには私たちが求める者も、私たちを必要とする者もいない」
 イエスはそういって再び歩を進めようとしました。
「ちょ、ちょっと、先生、舟で行かれるのはやめた方がいいですぞ。今日は昼から嵐になる。ガダラなんぞに行かず、この群衆に布教なさる方がいい」
 律法家が慌てて呼びかけます。
「そ、そうですよ。嵐ですよ、やめてたほうがいいですよ」
 新弟子が、それに追従するように続けます。
「貴方は貴方に従うがいい」
 イエスが律法家に向かい、揺るぎのない声でいいました。
「さて、エルマ。貴方はどうするのですか」
 イエスは視線を動かすことなく、隣に立つ新弟子に囁きます。
「ひっ、な、何でそれ……」
 突然、新弟子は思わず後ずさりました。エルマとは、故郷での新弟子の通り名でした。イエスはもちろん、この地方ではまだ一度も名乗っていない名前でした。
「……あ、いえ、そうではなくて、先生」
 それから、エルマはばつが悪そうに、イエスと律法家の両方を見比べます。律法家は忌々しそうに新弟子を睨んでいます。
 イエスは静かに歩き出しました。
「どうしました、エルマ。一緒に来ないのですか」
 そして、波打ち際から数歩歩いたところで足を止め、振り返ることなく尋ねました。
「あ、あの、実は、私はその、あ、今日、親父の葬式で……」
 エルマは岸壁で立ち止まったまま云いました。
「死者のことは死者に任せておきなさい」
「え、いや、でも」
「では、行きましょう」
 イエスは、再び歩を進めます。
「ほいさ」
 ペテロがその後を追います。
「嵐で舟がどうなっても知らんぞ」
 律法家が吐き捨てる様に云いました。
「んべ」
 それに対して、マリアが振り返って舌を出しました。けれど、エルマも律法家も、集まった民衆は皆、桟橋の手前で立ち尽くし、誰れも進み出る者はいませんでした。
 桟橋の先には細長い帆船があり、ペテロの弟、アンデレが出航の準備をしていました。
「さあ、主よ、こちらに」
 その巨体に似合わず、軽やかにペテロは舟に飛び乗って手を差し出します。
 その手に掴まって、イエスが静かに船に乗り込みます。
 最後に、マリアがぴょんと舟に飛び乗ると、
「みんな、おんなじ顔してるね」
と、岸壁に立ち尽くす人々を振り返り、小さく呟きました。

「ひゃほー、気持ちいいい」
「こら、舟で暴れるな」
「ペテロは動いちゃだめだよ。でっかいからお舟ひっくり返る」
「ああ、お前なら走ろうが落ちようが何にも変わらないからな」
「何よ」
「何だよ」
「あ、何かいたっ」
 舳先でペテロと顔を付き合わせていたかと思えば、たたたと舟のたもへかけて行き、
「ねえ、あれ何、何」
と、湖面に光る魚影を指さして、アンデレの袖を引っ張ります。
「あれは、そうだな……」
 アンデレは手に持った網を投げ込みます。
「漁れた!アンデレ、スゴい」
「光っていたのはこの魚だよ」
「へえ、太ってて意地悪そうで何かペテロみたい」
「おい、アンデレ、そんな奴相手にするな!」
「アンデレはいい人だよね。ペテロは莫迦だけど」
「なんだと」
「兄さん」
 アンデレが苦笑します。
「そうだ。この魚、ペテロの魚って名前にしようよ」
「なに訳わかんねえこと云ってんだよ」
「だからペテロは莫迦なんだってば。そのうち、このお魚に助けてもらえるかもしれないじゃん」
「はあ、なんで俺が魚に助けられにゃならんのだ」
「そんなこと云って、後で泣いても知らないよ」
「ああ?そりゃ面白れぇ。もし俺がこの先、魚に助けられる事があったら、お前の好きなもの何でもくれてやるよ」
「やたっ。何にしようかな」
「待てよ、それじゃ賭にならねえ」
「んじゃさ、お魚が助けに行けなかった時はあたしが助けに行ってあげる」
「魚に助けられ、悪魔っ娘に助けられって、俺はこの先どんだけ酷い目に遭うんだよ」
「そりゃ、日頃の……ん?」
 一陣の風が湖面を疾ります。穏やかなティベリアの風と違うゴランの高嶺から流れ込む鋭く冷たい風。
「まずいな嵐になりますぜ、先生」
「恐れることはありません」
 イエスは毅然とした声で云いました。
 それを聞いて、マリアがちょっと首を傾げます。ヘルモン山の風については、ガリラヤの漁師はよく知っています。そして、イエスは、司祭や律法家とは違い、相手が熟知している事柄に理由も無く口を挟んだり、自分の知識をひけらかすことはありません。多少困ったことがあっても、舟の上ならこの湖の漁師であるペテロやアンデレに任せて、平然と寝ていたでしょう。
 突然、辺りが暗くなりました。
 と、思うなり、雷が轟き、大粒の雹が降り注ぎました。
「うわ、なんだこれは」
 ぐらり。
 小さな舟が大きく傾きます。
 ガリラヤの海にはあり得ない大波でした。
「兄さん、舟が」
「帆を畳め。ひっくり返るぞ」
 云うなり、ペテロは帆を巻き上げる綱に手を伸ばします。それから、もう一方の手を延ばし舳先に駆け寄ろうとしたマリアの襟首を掴みます。
「馬鹿、落っこちるぞ」
「変だよ、全然」
「判ってる。いいから、イエス様の処に戻れ」
 子猫をぶら下げるように襟首を持ったままマリアをつまみ上げました。
「嵐よ、静まりなさい」
 不意にイエスが大きな声で云いました。
 次の瞬間、水面が不自然に盛り上がり、まるで生き物のように舟に向かってきました。
「うわぁ、やばい」
 ペテロがマリアをぶら下げたまま声を上げます。
「もうっ」
 マリアが波に向かって人差し指を突き出します。そして、大きく口を開きました。何か叫んでいるようですが、声は聞こえません。
「うぁあぁぁぁっっっっっっっっっっっ」
 けれど、ペテロとアンデレは、両手で耳を塞いでその場にしゃがみ込みました。
 舟が大きく揺らぎます。
 襲いかかってきた波は、船腹に触れた瞬間、真っ白な霧になって舟を包み込みます。
「ひやっ」
 ペテロが首筋に滴の冷たさを感じて顔を上げます。その面を大粒の雨が叩きつけます。
 波は細かな霧になり、次の瞬間には大粒の雨となって降り注いだのです。
 滝のような豪雨は、一呼吸もしないうちに止みました。
 そして、青空。
 何事も無かったように、雲一つ無い青空と、凪た湖面が広がっていました。
「な、なんだ、どうしたんだ」
「ふへへ、ペテロの弱虫!」
 蹲るペテロを見下ろしながら、マリアがころころと笑いました。
「イエス様と一緒に乗ってるのに、舟が沈むわけ無いじゃん」
「なんでえ、お前だって怖かったんだろ」
「違うよ、ペテロじゃないもん」
「んじゃ、何で舟に穴開けてんだよ」
 ペテロがマリアの足下を指さします。
「知らないよぉ」
 マリアが下を向くと、舟の底板にひびが入り、水がじくじくと浸み出していました。
「知らねえ訳あるか。この穴見ろ。お前の立ってた所じゃねえか。全く、一体どうやったらこの舟に穴開けられるんだよ」
「く、腐ってたんじゃないの」
「腐った舟であの波に耐えられるか。まあ、あんな恐ろしい波だ。思わず銛かなんかにしがみついたんだろ。仕方ねえよな」
「だから、違うって」
「判った、判ったから、ちょっと退けろ」
 ペテロはマリアを避けると、舟の底に開いたの穴に襤褸を詰め始めました。
「うん、何とかガダラまでは持ちそうだ。向こうに着いたら、材木貰って何とか修理しよう。あの辺りじゃ、良い杉材も無いだろうが、まあ仕方ねえ」
「むう」
 マリアは頬を膨らまします。
 あの波が押し寄せた時、それを弾いたのは、実はマリアでした。イエスの言葉に従うどころか、まるで挑むように向かって来た波を見て、思わずルシフェルとしての力を使ったのです。その昔、第一の天使として神の左座に位置したその力能は、ほんの断片でも人の心を容易く昏く冷たい漆黒の深淵に引きずり込んでしまいます。
 だから、その畏ろしい力がペテロ達に及ばない様に、事象の壁の向こうで発し、この世とは関わりの無い世界を通して直接波に当てたのです。それでも太陽の熱が何もない空間を伝わってくるように、事象の地平を越えて、その力がじわりと此方の世界に滲み出てきたのです。
 その気配とさえ云えない幽かな異世界の揺らぎさえ、ペテロ達にとっては魂を凍てつかせる圧倒的な恐怖になるのです。人の心だけではありません。心を持たぬ舟の木材でさえ、その聞こえぬ叫びに怯え、震え、引き裂かれたのです。
――でも、波は止まらなかった。
 その圧倒的な恐怖に対しても、波は四散するまで押し寄せてきました。
――悪霊……とは違うかなぁ。
 そもそも、この地方の悪魔、悪霊の類でイエスの言葉に抗える者など居ないはずです。神に抗う力能を持ち、神に挑む堕天使ルシフェルたるマリアでさえ、神の子としてのイエスの言葉に逆らうことは容易ではありません。そんなことをすれば、この世界の理を外し崩壊させかね無いからです。
 ましてや、形を持たない局地の小さな精霊などが神の言葉に反すれば、自分自身の存在基盤を失って、煙のように消えてしまうでしょう。
――それなのに、あの波は向かってきた。
 マリアはそっとイエスへ視線を向けました。その視線に気付いたかどうか、イエスは静かに対岸を見つめていました。
「まあ良いじゃん。兎に角、イエスさんが嵐を鎮めてくれたんだから」
 マリアはイエスの元に駆け寄ります。
「ね」
 そして、イエスにそっと目配せしました。
「あ、ああ。やっぱり我が主は凄い。嵐も従わせてしまう」
 ペテロが感極まった声を上げます。
「あったりまえじゃん」
 マリアがイエスにもたれ掛かりながら云いました。そして、小声で、
「やっぱり、変だね」
と、イエスにだけ聞こえるように云いました。

 ざわり。
 背の高い葦が風に揺らいでいます。
 葦を掻き分けるように、朽ちかけた木の桟橋が延びています。
 湖底はティベリアと違い細かな砂でした。その柔らかな砂地に船底がづっと触れました。
 アンデレがロープを持ったまま桟橋に飛び移ります。ロープを杭に引っかけるとぐいっと引っ張ります。
「誰も居ないね」
「おう、本当だ」
 ペテロがぐるりと見回します。
 岸辺に茂る葦の間の細い道を抜け、砂地が硬い土に変わるころ、視界が開けると、何件かの家が並んでいました。
 陽の光が空の一番高いところから照りつけます。千切れ雲が青空にぽっかり浮かんでいます。心地よい正午の町。陽射しに白い石畳が眩しく輝いていました。
 整然とした街並。
 手入れの行き届いた花壇に咲く色とりどりの花。
 落ち葉もない水路にきれいな水が流れています。
 落ち着いた美しい町。
 けれど、そこには響く足音も笑い声も有りませんでした。
「イエス様、何かおかしいですね。ちょっと様子を見てきます。アンデレ、お前は舟に戻って底板直しておけ。とりあえず町まで保てばいい。その辺に落ちてる板切れで良い。兎に角、いつでも出れるように支度してくれ。何か、嫌な予感がする。イエス様はここでちょっと待ってて下さい」
 ペテロがてきぱきと指示を出します。イエスは黙って肯きました。
「それじゃ、ちょいと見てきます」
「あ、待って。あたしも行く」
 町に向かうペテロの後をマリアが追いかけます。
「付いてくるな」
「ペテロだけじゃ心配だもん」
「お前に心配されるようになったら、このペテロ様もお仕舞いだな」
「ね、やっぱり誰もいないよ」
「おい、先に行くな」
 角を曲がったマリアの後からペテロが路地を抜けます。
 村の真ん中に広い石畳が広がっていました。集会場でしょうか柱の並ぶ、間口の広い伽藍が正面にありました。
「ほら、誰もいない」
「お、何だ、人は居るんじゃねえか」
 ペテロが、伽藍の裏手辺りに動く人影を見つけて指さします。
「待ってろ。ちょっと様子を聞いて来る……何してる」
 ペテロが振り返ります。服の裾をマリアがしっかりとつかんでいました。
「駄目」
「何が」
「だから、行っちゃ駄目だって」
「何云ってんだ。向こうに大勢居るのが見えないのか」
「いないよぉ」
 マリアがぶんぶんと首を振ります。
「そう、意地張られてもなぁ」
 ペテロは困ったように頭を掻きました。
「さっきまではまるで死に絶えた村みたいだったんだし、お前がまるっきり間違ってたわけじゃねえよ。向こうの連中も帰ってきたばかりかもしれねえ」
「違う」
 マリアの目にうっすらと涙が滲んできました。
「違う、違う、違う、ここにいるのはあんた位なんだから」
「ああ、判った、判った。悪かった。俺の間違いだよ、ここにゃ鬼の子ひとり居やしねえよ」
 泣く子をあやすように、というか、実際涙目のマリアをあやしながら、ペテロは後ろを振り向きました。
「馬鹿っ」
 ぐいっ。
 髪の毛が引っ張られました。
「なっ……」
 かつん。
 目の前で音がしました。
 つんとした甘い臭いが鼻につきました。
 甘くて、けれど喉の奥を引っかかれるようないやな臭い。
 ぺたん。
 髪を引かれるままに、ペテロは尻餅をつきました。
「な、なん」
「逃げて、ペテロ」
 ぐいっ。
 髪の毛を今度は横に引っ張られました。
 かつん。
 黄ばんだ歯が、灰色にひび割れた唇から覗き、ペテロの耳の横で噛み合わされました。
「咬まれたら同じになっちゃう」
 マリアの声でした。
「この人みたく。もう、ひとじゃないけど」
 ペテロは惚けた顔で左を見て、次の瞬間。
「逃げるぞっ」
 跳ねるように立ち上がりました。
 何の気配も無いままに、向こうにいたはずの人影が、すぐ横に立っていました。
 その姿を一瞥するなり、ペテロは左手でマリアを抱え上げると、脱兎のごとく駆け出しました。
 その後を追うように、嘗て人だったなにかが、腐臭を放ちながらゆるゆると歩を進めます。
「な、なんだありゃ」
「だから、人じゃないっていったのに」
 小脇に抱えられたまま、マリアが口を尖らせます。
「兎に角、戻るぞ。急げ」
「急げないよう、ペテロにお持ち帰りされてるんだから」
 マリアは足をばたばたさせて云いました。
「何でもいいから、イエス様の所まで行くぞ」
 整然とした路地を抜け、町の入り口まで戻ります。
「せ、先生」
「なんか、ゾンビいたよっ」
「ぞん?それより、先生」
 ペテロが手短に今見たことを説明しました。
「悪霊に憑かれたのでしょうか」
 イエスがつぶやきます。
「判んない。知らないよ、あんなの」
「ほう、悪魔っ娘が知らんとなりゃ、こりゃ異国の魔物だな」
「あくまっこじゃない!!」
「ああ、悪霊憑きか。お前さんに憑り付いてる七つの悪霊にでも聞いてくれ。どれか一人ぐらい知ってるだろ」
 そう云って、ペテロはがははと笑いました。けれど、マリアは今度は云い返さず、何か考えるように黙り込みました。
「どうした。怒ったか」
「ん、ううん。あのね、ホントにぜんぜん知らないの」
「そうか」
 勿論、ペテロはマリアの本当の姿は知りません。それでも、マリアがイエスとはまた違う不思議な力があることには気が付いていました。それを解ってイエス様が弟子にしたのだから、悪い力ではないのだろう、ペテロはそう考えていました。
――その悪魔っ娘が真顔で知らないと答えた。ならば、本当に何か違う存在なのだろう。
「どうします、先生」
「救いましょう」
 イエスは一時の躊躇いもなく答えました。

「せ、せ、先生、大丈夫なんですかい」
 ずるり。
 死体が歩いていました。
 死体。
 それは確かに動き歩いていました。けれど、その顔にも瞳にも、いかなる生者の気配は感じられません。頬も手足もだらんとして、筋肉の張りは有りません。
 ずるり。
 ずるり。
 只ひたすらに、糸で引かれるように足を前に出すだけの存在。
 崩れかけた青黒い皮膚はひび割れ崩れ、じくじくと不透明な黄緑の汁を滴らせ、腐臭が香油の香りに混じって流れてきます。
「ほ、ほんとに大丈夫ですかい?」
「判りません。けれど、迷っている者は導かねばなりません」
 イエスが、歩く死体に向かって歩を進めます。
 ずるり。
 死体達が後ずさります。
「お前達」
 イエスが語りかけます。
「お前はぁ」
「あんたは」
「きさまは」
「こいつは」
 死体達は一斉に答えました。
「イエス」
「イエス」
「救い主イエス」
「ユダヤの王イエス」
 口調も、声音もまったく違うのに、その全てが何処か嫌な嗤いを含んでいて、何かに無理矢理口を開かされたような、不自然な統一感がありました。
「貴方は誰ですか」
 イエスは、その全てに、そして、誰に向けるとも無く問いかけました。
「この者達は苦しんでいる。解放しなさい」
「何だと」
「何故だ」
「何を云う」
「何故、そんな事を云う」
 死体達は、ばらばらにそう云い返し、最後に揃ってこう云いました。
「お前に何の関わりがある?」
「お前は誰です」
 その応えを受け流し、イエスはさらに問いかけます。
「知らん」
「云わぬ」
「お前の知らぬ者さ」
「なーんだ。イエスさんの前じゃ、怖くて名乗りも出来ない小物なんだ」
 横から、マリアが口を挟み、くすくすと笑いました。
「誰だ」
「女だ」
「生意気な小娘だ」
「知っているぞ」
「おお、知っている」
「悪霊付きの小娘だ」
「七つの魔性を持つ女」
「くくく」
「ふふふ」
「かっかっかっかっ」
「けけけけけけけけけけえ」
 死体達は嗤い出しました。侮蔑と嘲りの嗤いがぐるぐると渦を巻いて村中に広がっていきます。
「何が可笑しいのさ」
 マリアは両手を腰に当てて、挑むように云い返します。
「おかしいさ」
「滑稽だ」
「神の子も狡い事をする」
「悪霊を使って、悪霊退治とは」
「救世主もとんだ一杯食わせ者さ」
「悪霊よ、立ち去りなさい」
 イエスが一歩前に出て、静かに掌を一番近くにいた男にかざします。と見る間も無く、糸が切れたように男はその場に崩れ落ちます。
「無駄だっ」
 ふいに、それまでバラバラだった声が一つになりました。
「お前の力は我には効かん」
「効いてるじゃん」
 イエスの後ろからマリアがつっかかります。
「くくく。これはただの死体だ。我はレギオン、多くの者という意味だ。お前ら土着の神などの想像も及ばぬ彼方より来た者だ。お前は一つの死体を死体に戻しただけ。我は無数に有り、無限の力を持つ者。死体がある限り、我はいつでも、幾つでも操る事が出来る。それにな、お前は我に何も出来ぬが、我はお前らをいつでも打ち倒せる、ぞ」
 ずる。
 イエスの横で巨体が崩れました。
「ペテロっ」
 マリアが声をあげました。
「ほうら、どうした。死んだぞ。お前が我に何も出来ぬうちに、お前の弟子は死んだぞ。どうするのだ、神の子よ。きさまは、こう説いているそうではないか、右の頬を叩かれたら、左の頬を差し出せと。さて、右の弟子を打たれたらどうするのかな。左の弟子でも差し出すか」
 どろりと濁った視線がマリアに向けられます。
 つい。
 イエスは一歩前に出ました。
「おお、怒りに任せて我らを打ち倒すか。目には目を、だな。やってみろ、神の子」
 もう一歩、イエスは前に出ます。
「おいおい、お前の神の威光は我らには通じぬぞ。まあいい、それでもお前は幾千、幾万の者達を救うメシアだ。向こう二千年に渡りこの世を支配する救世主だ。その魂はどんな味がするのだろうな。この後の歴史の軋みが、我らの舌と魂を奮わせるだろうか」
 つい。イエスはその言葉に答えること無く、また一歩踏み出します。
「馬鹿め、それほど死にたいか」

「お待ちなさいっ」

 硝子のような澄んだ声が響きました。
「む」
 死体達が一斉に向かいの家の屋上を振り向きます。
「人を害し、神の子に牙を剥く無法者。天が許しても、このあたしが許さない」
「何者だ」
「神様の味方、サイコセラフィム」
 とうっ、というかけ声とともに、屋根から黒い影が飛び降ります。
 黒い衣。
 黒い髪。
 黒い瞳。
 白い面。
 黒い覆面がその顔を半分隠していました。
「イエスさんには手を出させない」
「マリア……」
 イエスが、困ったように呟きました。
「え、ち、違う。あたしはマリアじゃ無いよ。神様の味方、サイコセラフィムだってば」
「くくく。おお、これは面白い。神の子よ、悪霊の娘を使って悪霊を祓うか」
「しないよ」
「なんだと?」
「イエスさんはそんなことしない」
「だが、現に俺を力でねじ伏せようとしているではないか」
「だから、イエスさんはそんなことしないってば。するのは」
 マリアはくるりと身を翻しました。
「このあたし」
 そして、レギオンに向かってにっこりと微笑みました。
「同じことだ」
 能面のような死者の顔に、わずかな戸惑いの表情が浮かびました。
「全然違うよ」
「何とでも云え。何を云っても我らは倒せぬ」
「そいじゃ、行くよ」
――何を云っているのだ、こいつは。
 圧倒的に優位に立っているというのに、喉に刺さった骨のような不快感。
「デーモンフラッシュっ」
 自称、サイコセラフィムの手から見えない圧力が一体の死体を吹き飛ばします。
「無駄だっ」
「無駄」
「無駄」
 死体の吹き飛んだ場所から声が挙がり、続いて周りの死体に広がります。
「くっ、ならばこれはどう?デビルハリケーン」
 華奢な腕を横に振ると、陽炎のように空気が振るえ、それが波のように広がって、囲んでいた死体達を次々に薙払っていきます。
「自棄になって死体を弄ぶか」
「哀れよ」
「惨めだ」
「見苦しい」
 死体はずっと後ろに倒れているのに、声は先ほどの場所から動くことなく聞こえてきます。
――ほら、我らを揺るがす事も出来ぬ。
「くっ。ならば、セイタンズ……」
 サイコセラフィムは、すっと片膝を曲げ前屈みになって祈るように手のひらを額の前に組みました。
「ウェーブっっっ!」
 その手を八の字を描いて勢いよく振り下ろしながら、曲げた膝を伸ばします。
 漆黒の衣がはためき、白い砂塵が球体となって広がります。その砂嵐に呑まれ、残る死体達も全て打ち倒されました。
「どう?」
 両の手を腰に当て、誇らしげにサイコセラフィムが胸を張ります。
「何も」
 誰もいない広場の石畳に声がします。
「何も変わらぬ」
「何も出来ぬ」
「お前には何も出来ぬ」
 人の居ない町の広場に嘲笑が響きます。
――だが、この苛立ちは何だ。
「馬鹿で愚かな小娘が。我らにはお前の力は届かない」
 その苛立ちを吐き出すようにレギオンは声に出します。
「むっきぃぃぃ。バカってゆった。小娘ってゆった」
 マリアはその罵倒に白い面を真っ赤にさせて眉を吊り上げます。
「こうなれば、最終奥義、ハルマゲドン・ストライっん?」
 手のひらを上にして両の手を天に伸ばしたまま、マリアが振り返ります。
「それは駄目ですよ。ガリラヤが消えてしまいます」
 イエスが静かに首を横に振りながら云いました。
「あ、そっか」
 ちらりと頭上を見て、チロリと真っ赤な舌を出します。頭上の空には、真昼だというのにぽつんと小さな星が一つ白く見えました。
「イエスさん、離れてて。こっからは本気でいくから」
 イエスがその声に従って距離をとります。
「ほう、今までは本気では無かったと。それは面白い。で、どうするんだ」
 レギオンが問います。
「こうするの。サイコセラフィム、メタモルフォーゼっ」
 闇が広がりました。
 暗くなったのではありません。
 町の風景は相変わらず白く眩しい晴天の正午です。けれど、その風景からすっぽりと明るさと暖かさが消えていました。まるで冷たい硝子乾板に写し取られた動かない景色のように。
 そこに、漆黒の翼が広がっていました。烏の輝く羽根ではありません。蝙蝠のような黒々とした翼。
 漆黒の衣は、白い裸体に幾重にも巻き付く蛇に変わっていました。
 黒光りする鱗の年経た蛇が広げた翼で守るように覆う少女。
 一片の温度も無く、けれど、見る者の目を焼き尽くす程に眩しい輝きを放つ白い裸身。
 何も無く、無いことさえ無いが故に黒としか知ることの出来ない虚空の黒髪。
 透明が透明を重ね、無限の透明の中に全てを映す深淵の瞳。
 そこには、マリアでもなく、サイコセラフィムでもなく。
 嘗て神の左座にあり、やがて天より堕ちし者。
「ファイナルハイパーサイコセラフィム、見参」
「まあ、本人が云うんだから、仕方ねえだが、とどの詰まりはルシフェルだよ、あっち側のあんたら」
 古き蛇がため息混じりに云いました。
――成る程、これは思いがけない大物が釣れた。
 レギオンは自分の中に生まれていた不安が消えてた、様な気がしました。
「ヘブライの堕天使か。我等を驚かせるとは流石だな。だが、判ってしまえば、其れだけのこと。所詮は、神話の中の大将に過ぎん。さて、本気を出して何をする」
「な、何って……」
「何にも考えてねえだら」
 体に巻き付いた古の蛇が溜息混じりに呟きます。
「違うよ。ちゃんと考えてるもん。えと、ええと、何だっけ、サ、サラマンダー萌えよ?」
「燃えよ」
 蛇が答えます。
「そう、それ。燃えよ」
 ルシフェルはついっと人差し指を伸ばしました。
「らっちもねえが」
 延ばした腕にするすると巻き付いた蛇は、その指先にちょこんと頭を乗せて、面倒臭そうに口を開けて、ぽわぽわと無造作に火の玉を四つ吐きます。火の玉は四方に広がり、それを結ぶように炎が奔り正四面体を作ります。
「ファイアートライアングル!」
 かけ声とと共に、炎の正四面体が四散します。その瞬間、宇宙の始まりにも匹敵する高温の焔に因って空間さえも揺らめきました。
「んで、こんどは、ウンディーネ、う……う、う、うぅ」
「うねれ」
 へびが面倒そうに呟きます。
「ウンディーネ、うぬれ!」
「うねれ」
 蛇はもう一度繰り返すと、はぁ、と白い霧を吐き出します。
 煙は一旦広がると、今度は、ルシフェルの延ばした人差し指に集まります。白い霧をまとった人差し指が、一筆書きに五芒星を描きます。
 きらきらと五芒星が十二枚に分かれて星のように舞い散りながら、まだふつふつと沸騰する空間をを四方八方から取り囲みます。その中心にゆらゆらと陽炎に揺れるレギオンの姿がありました。
「アイスペンタグラム」
 五亡星の頂点が互いに触れ合います。
「ほいさ」
 そうして出来た五角形が正十二面体を造るや、その中の空気がゆがんだままに凍結します。
「んで、んで、ええと、シルフ、消え……って消えちゃうよ!」
「消そうとしてたんじゃないんかね」
「あ、そうか。消えよ!」
 今度は、指で菱形を描き、その中心に指をつんとついて手前に引きました。菱形と引いた指先の頂点を結ぶ様に白い霧が生まれます。
「んじゃ」
 ばさり。大きく翼を打ち振ると、霧の四角錐はくるりと回り、鏡に映したように向こう側にも四角錐を造りました。二つの四角錐が合わさって一つの正八面体を造ります。
「オクトパスハリケーン」
 その八面体が空気を巻き込んで回転します。突風が吹き荒れ、凍結した大気を粉砕します。
「止めは、コボルド……いそめ?」
「そりゃ、ごかいだ。というか、おめさん、ちゃんとアラムの言葉で考えてるかえ?」
「もう、五月蠅いなぁ。んで?」
「いそしめ」
「いそ……しねぇぇぇぇ!」
 ルシフェルは正方形を描きます。
「違うんだが、まあ、良からず」
 蛇がチロリと舌を延ばすと、その四角のからもう一枚の正方形が飛び出して立方体を造ります。
 それは、ルシフェルの髪を思わせる漆黒の立方体でした。四散した結晶がその黒い空間に渦を巻いて引き込まれます。
「見よ、これぞ地獄の四大天使っ」
「また埒もない事云って。ミカさん怒るぞ」
「て、天使の力だよ、一応」
「やったのは俺だがな」
「何でもいいじゃん、やっつけたんだから」
「誰が何をどうしたと」
 あざ笑うような声がしました。
「ほれみれ、効いてねえぞ」
「何で?高等魔術だよ」
「魔術も何も、まだマケドニア辺りから出てもねえ」
「ア、アラブの」
「砂漠にゃ、おめさんのお友達のバールとかしか居らんぞい」
「うう、ヨハンの莫迦!」
「何をうだうだ云っている。貴様等の世界の法則など我らに効かぬ。其れが神の力だろうと悪魔の力だろうと」
「属性魔法が駄目なら」
 レギオンの言葉も耳に入らないように、小さな拳固にはぁっと息をかけます。
「レベルをあげて」
 つかつかとマリアはレギオンに近づきます。
「物理で殴るっ」
「何を愚か、なっ」
 レギオンの思考が止まりました。
 無いはずの左の頬に感じた冷たい感触。やがてそれはじわりと熱を帯びて広がります。
「見たか、セイタンズマグナム」
「まだ火縄銃も無えけどな」
――何だ。
 ルシフェルがうれしそうに右の拳を突き上げてはしゃいでいる間も、レギオンは動くことが出来ません。
――何があった。いや、これは何だ。
「何をしたっ」
「そんなに騒がないで。何かご用?」
 耳元で吐息のような囁きが聞こえました。
 レギオンは思わず後ずさります。
「ねえ、痛かった?」
 ルシフェルが首を傾げて問いかけます。
「痛い?」
――痛み……痛み!
「なんだ、なんだ、なぜだ、何を、何をした。貴様、俺たちに何をした。何故、貴様は我らに触れられた。何故、我らが痛みを感じている。何故、我らは痛みを知っている。何故、何故、何故、我らは貴様を恐れている、貴様らとは何の関わりも無いというのにっっっっ!」
「そう、貴方はイエスさんには何の関わりもない。だって、あなたは救うべきひとの子じゃないから。向こうの世界から、こっちの世界の無力な人間の魂を喰らいに来ただけの異邦人。でも、あたしには関わりがある」
 レギオンは寒気を感じました。
 温度の無い冷たい硝子乾板の景色。けれど、それは何時もと同じ、自分とは無縁の向こうの風景の筈でした。其れなのに何時の間にか自分自身がその景色の中に立っていることに気が付いたのです。
「お、お、おまえ」
 レギオンの胸に、己の住む向こうの世界でも決して味わったことのない感情が沸き上がりました。
 恐怖。
「あたしはこの世の司。だから、この世界に関わる全ての者に関わりがある。ここはものが現れ消える世界。ここは死に行く命の世界。そして、あたしは消えゆく者と供に歩む者。だから、この世界に在りて在り在りたる全ての存在は、あたしと関わらずにはいられない」
「お、お前は」
「そう、あたしは」
「まさか、そんな、お前は、まさか」
「そう、あたしこそ……」
「お前はっ」
「神様の味方、サイコセラフィムっ!」
「それ違うぞい」
「うもー。良いじゃん、格好いいし。そだ、この人等は格好悪いのに変えちゃおう」
「何を云っている。何の話だ。何だ、貴様等は一体……」
「豚さんになーれ!」
 後悔。
 それが、レギオン、この世ならざる精神体の最後に残った思念でした。
「んじゃ、掟に従って、這入って来たところから、出て行きなさーい!」
「そんな掟も無えけどな」
 無数の豚が村を埋め尽くしていました。それが、ルシフェルが指し示す通りに、一斉にガリラヤ湖に飛び込んで行きました。

「ペテロ、ペテロっ!」
「むにゃ……なんだぁ……悪魔っ娘じゃ……何処へ行こうってん……」
「まだ、死んじゃ駄目だってば」
「大丈夫でしょう。ペテロ、起きなさい」
「……いや、主が……なら、俺も……って、どうなった」
「うわっ、びっくりした」
 一瞬前まで死んだように横たわっていたペテロに小脇に抱えられて、マリアが素っ頓狂な声を上げました。
「イエス様、ご無事でしたか。良かった。あの悪霊は?」
「あたしがコテンパンにやっつけたよ」
「そうか、流石先生だ。やはり、あんな悪霊はあっと言う間に祓っちまったか」
「だから、違うって。あたしが」
 ペテロに抱えられたまま言い返します。
「そうです。マリアに助けてもらいました」
 イエスが静かに云いました。
「ああ、イエス様がそう云うんでしたらそうでしょう」
「ペテロ、全然信じてないでしょ」
「俺は、イエス様、を信じるんだよ」
「むう。あ、村の人だ。きっと悪霊倒したあたし達に感謝感激で大歓迎だね」
 マリアが手足をばたばたさせてはしゃぎます。
「いや、どうかな。先生、俺の後ろへ」
 ペテロはイエスを庇うように前に一歩出ました。
 何処に居たのでしょう。広場に大勢の人が集まっています。
「沢山いるね」
「ああ、悪霊から逃れて隠れてたんだろう」
「お礼に御馳走してもらえるかな」
「なんか、そんな感じじゃねえ」
「イエス様のご一行ですね」
 白い髭の老人がペテロの前に進み出ました。
「そうだが」
 ペテロが応えます。
「私はこの村の長です。悪霊を祓ったことは感謝します」
「えっへん、そうで…むぐぅ」
「悪霊は全てイエス様が祓われた。もう心配はない」
 ペテロはマリアの口を塞ぎながらそう告げます。
「しかし」
「何か」
「申し訳ないが、今すぐこの村から出て行ってもらいたい」
 村長から掛けられたのは冷たい言葉でした。
「あなた方の行いを見ていた者達がいる。彼らは怯えながらこう云っている。あなた方は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している、とな」

「なんて連中だ。もう帰りましょう」
 ペテロは頭から湯気を立ち上らせながら、船の様子を見に行きました。
「ひっどい。せっかく助けたのに」
 マリアもプンプン顏で云いました。
「けれど、あの町は救われました。それでいいのです」
「そっか」
「それに、彼らの言ったことは間違いではないでしょう」
「ん、そだね。それじゃ、これで万事オッケーだよね」
「何が」
 少し震える低い声が後ろから聞こえました。
「何が万事オッケーなのかしら」
「マルタ、来ていたのですか」
「ああ、主よ。昼の軽食をお持ちしたのですが」
 マルタがイエスの前に跪きます。
「イエス様は先に船にお戻り下さい。私はちょっとこの娘と軽食の準備をしますから」
 それから立ち上がり、真っ青な顔のマリアへニッコリと微笑みました。
「ね、マリア」
 もちろん、その瞳は全然微笑んでなんかいませんでした。

つづく

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