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 しわしわ。
 曇天からゆっくりと降りる霧雨。
 しわしわ。
 ぼんやりとした雨音。
 ぺたり。
 ひと気のない廊下。
 古びた灰色のロッカー。
 端の黒ずんだ蛍光灯。
 くすんだ天井。
 冷えたリノリウム。
 ぺたり。
 ぺたり。
 黒い長靴。
 ゴム製のエプロン。
 よれた白衣。
 赤茶けた染み。
 ぱたぱた。
 白地に青の上履き。
 白いソックス。
 ゆれる紺のスカート。
 まぶしい夏服。
 振り返る女生徒。
 ぎらり。
 ひらめく解剖刀。

 そして……悲鳴。


やがてくるもの


 雨が降っていた。
 粘りつくような梅雨の湿り気が、天井や壁をじめじめと浸食する。陰鬱な瘴気に満たされた教室で、淡々と授業が進んでゆく。黒板に並ぶ短い文章。情報量の極度に乏しい言葉を発し続ける教諭。新たな事象の発見も人間知性の進展も無いままに流れてゆく空疎な時間。いつもと変わらぬ授業風景。
 私は窓に視線を向け、雨のそぼ降る景色をぼんやりと眺める。
「では、次のところ、優子くんに読んでもらおうかな」
 ヒロシ教諭の声がどこかぎこちない。呼ばれた女生徒は、つんと澄ました顔で立ち上がり、どこか芝居がかった口調で教科書の文字を読み上げる。 
 日頃と同じ教室の当たり前の授業の風景の中に、しかし、どこか違う異質な空気が混じっている。もやもやした違和感を背中に感じて、私はそっと後ろを振り返る。
 知らぬ男たちが立っていた。
 いや、彼らが何者なのかは明白だった。個々の人間に関して云えば、彼らに共通する性質は見いだせない。出身も仕事も、趣味趣向に到るまで多種多様な人々。違う風土、違う生活、違う人生の中で、ただ、近親者に学生を持つ、その一点だけでくくられた曖昧な集団。
 保護者。
 学校という空間は一つの閉じた社会である。その閉鎖性は血族さえも異分子として拒絶する。学校世界とは、所属する生徒とその活動の総体であり、その行動は校則という法則に支配され、教師という管理者によって運営される。その閉鎖された世界も、時として異界に対して開かれる。
 父兄参観日。
 そこに集う者達は、己の属する社会とも、家庭という血族集団とも、そして、学校という閉鎖された社会とも切り離されて、保護者という曖昧な集団を形成するのだ。
 閉じられた事象の地平に生み出された他者という名の特異点。
 そして、授業という日常は背後に並ぶ他者の視線によって、知らない時間へと変容する。
 だから、こんな日には……。

「……ん、純ってば」
 背中をつつく指の感触が、私を現実に引き戻す。
「え、何」
 喉の奧に、悪夢から目覚めた朝のような不快感が張り付いている。
「ほら。前、前」
 麗亜の指摘を受けて、私は改めて前を見る。
「じゅ、純くん、どうした。次の段の意味をいいなさい」
「意味ですか」
 私は教科書に目を落とす。
「29ページ三行目」
 麗亜がそっとささやく。
 意味……。
 私はゆっくりとベージを繰る。短い言葉がゆったりとしたレイアウトで並んでいる。このセンテンスの意味を問うたのだろうか。
「ええと、条件『すべてのXについて、Xがアメリカより分離し、かつ、Xが移動した状態である』を満たす三人称単数男性指示代名詞の指示対象の集合φは空集合ではない、でしょうか」
「え、ええと、何だって」
 この若い教師は怪訝な表情を見せる。
 私もまた困惑の表情を浮かべる。私は入学したときから、この新しい科目がなんなのかよく理解できないでいた。
 極端に情報量の少ない短い文章。
 繰り返される詠唱。しかし、抑揚に乏しいそれは発音の訓練とも思われない。
 付加される情報も新たな問題定義もなされぬままに繰り返される問いかけ。「おはようございます」はどんな意味か。「私は日本人です」の「私」とは何か。
 何より不思議なのは、誰一人として、この授業を不審に思っていないことだ。後ろに並ぶ父兄でさえ、当たり前のようにこの授業を眺めている。
「まあ、いいでしょう。次回はきちんと訳してくるように。」
 いつもと同じように教諭は、ちょっと眉を顰めてから、麗亜に視線を移す。私も眉を顰めて席に着く。かみ合わない歯車。
「それでは、麗亜君、同じところを」
「はい。『そは東方の外つ国よりあらはれきたるひとなり』」
 古語文法の授業、なのだろうか。
 私はまた窓の外を眺める。
 しわしわ。
 しわしわ。
 捕らえどころのない霧雨。
 日常ならざる教室。
 情報なき授業。
 ぼんやりした他者の視線。
 こんな日は……。
 また、ざらりとした嫌悪感が背筋を伝う。
 あの人が来る。

 予告なく教室の扉が開かれる。
 そこに一人の女生徒が立っていた。
「ど、どうした」
 ヒロシ教諭が問いかける。
 答えは、ない。
「いま、授業中だよ。何か用かい」
 女生徒よりも、教室の後ろに立つ保護者たちを気にするように教諭がもう一度、問う。
「あ……」
 女生徒が小さくうめく。
 けれど、このまだ若い教師は気がついていない。彼女の瞳に浮かんでいる恐怖の色に。
「ん、どうした」
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
 絶叫とともに女生徒が崩れ落ちる。
「ひっ」
 教諭がのけぞる。
 その喉元に突きつけられたひとふりの短刀。刃先は緩やかな曲線を描き、全体としてはバターナイフを連想させる。けれど、その鋭角さを欠いたフォルムは、見る者にいい知れない不快感を与える。
 解剖刀。
 肉体を切り分けるために造られた刀。
 その鈍く光る刃先が、ねっとりと赤黒い液体で濡れている。
 血糊。
 それが人の血液であることの認識した瞬間、教室は恐怖と混乱の坩堝と化した。
 波うつように逃げまどう人々。
 倒れる机。
 飛び交う怒声。
 阿鼻叫喚の教室に、うっそりと立つ人影。
 赤黒いシミの広がる白衣
 まだ体液に濡れたゴムの前掛け。
 白すぎる頬に血糊がぽつぽつと着いている。
 赤い唇の上に整えられた口ひげ。
 おもたい瞼の下の酷薄そうな瞳は異様に小さい。
 その冷たい視線が教壇の向こうから私をとらえた。

 ああ、やって来る。
 まっすぐ、私の所に、あの人が来る。

「純さん、危ないっ」
 背後で声がする。
 夢見氏の声だろうか。
 私はぼんやりと顔を上げる。
 あの人が立っている。
 小さな瞳が私を見下ろす。
 そして、ゆっくりと持ち上がる解剖刀。
「逃げるんだ!」
 あの人の薄い唇の端が軽く吊り上がる。
「だれか止めて」
「純さんがっ」
 周囲の声が不思議に遠くで聞こえる。
 しわしわ。
 しわしわ。
 私は雨音につつまれる。
「見つけたぞ」
 あの人が笑った。
「ええい、かくなる上はぁぁぁ!」
「夢見君、だめだよ!」
 あれは麗亜の声。
 誰かが近づく足音。
 あの人が解剖刀をゆっくりと振り下ろす。
 だめだ。
 これ以上、許されない。
 この教室に恐怖をまき散らすことは。
 私はいやいや口を開く。

「いい加減にして、父さん」

「おとう……さん」
 モップを大上段に構えたまま夢見氏がこちらを向く。
「……って、純さんの」
 その問いが私の精神的外傷をえぐる。
「おお、純は私の娘だぞ、少年」
 ああ、教室中の視線を感じる。
「娘の勇姿を一目見ようと、遥々とやってきたのだ。ほれ、そこで倒れておる貧血気味の女学生がここまで私を導いてくれたのだ」
 少女が教室の入口で倒れているのは、貧血だからではない。
「だから、解剖刀で人を指すのはやめてっていってるでしょ。それから、その格好で校内を徘徊するのもやめて」
 なぜ、何度忠告しても聞かないのだろう。
「それとね、血がほっぺたについている」
「何、構うことはあるまい。毒でもあるまいし」
「毒よ、場合によったらね。感染症に関したら、人間の血液が一番危険だわ」
「愚かな娘だ。はらわたを見てみれば、健康体かどうかは大体わかるぞ」
「発病してるかどうかは、別の問題よ。キャリアの可能性もあるんだから」
「ふん、ウイルスなぞ興味はない。やはり、美しいのは臓物だ」
「好きとか嫌いとかの問題じゃなくて」
「あの、純さんのお父さんって……犯罪者?」
 横合いから夢見氏が口を挟む。
「違うっ、解剖学者よ」
 ささくれた気分で私は答える。
 何度も繰り返された光景。転校した学校の最初の参観日に必ず起こる椿事。
 それが私の父だと知れるや、教室内の恐慌は驚愕に変わり、やがて好奇心をむき出しにした嵐のような問い掛けに私が答え終わる頃には、潮が引くように教室に沈黙が支配する。そして、翌日から私の周囲には静かな日々が続く。
 私が転校するまでの間。
 研究に没頭できるという点ではよい環境だが、それが解剖学そのものへの嫌悪と恐怖によるものであることは、あまり愉快な話ではない。
 けれど、それは仕方のないことなのだろうか。学問の道は常に異端でしかないのだから。
「じゃあ、人間の解剖とかするの」
 夢見氏が身を乗り出して父に問いかける。
 何度も繰り返された問い掛け。興味本位からでたその問い掛けは父の答えにやがて凍りつく
「おお、するとも。人を捌くのがわしの仕事だからな。つい今し方も開いてきたばかりだ。今日のは死にたての死体だぞ。見目麗しい女学生の首のもげた礫死体。だが、死因は縊死。後ろから手ぬぐいで絞め殺したのだ。殺した後に線路に放置したのだな。死後にもがれた首の傷は熟れた柘榴のように薔薇色にうじゃじゃけ、それはそれは美しかったぞ」
「す、すごい。やっぱり純さんの親父さんだけの事はある」
 少しだけいつもと違う反応。でも、何がやっぱりなのだろうか。
「その通り。解剖はすごいぞ」
 父が胸を張って答える。というより、尊大に構えていない父を見たことがない。
「あ、あの、私にも聞かせて、解剖の話」
 腰を抜かしていた女子の中から声がした。良枝だ。
「のたうつ内蔵、飛び散る血潮、よね」
「馬鹿者。死体から血が吹き出すものか。こう、どろりとしたたり落ちるだけだ。生体解剖ならともかく」
「せ、生体解剖」
「おお、ほれ九州の……」
「だから、やめなさいって」
「いいじゃん、純。聞かせて、解剖の話」
「そうよ、聞きたい」
「よいぞ、よいぞ、娘達。学問に興味を持つことは良いことだ。では、人のさばき方でも講義しよう」
 気がつけば、父の周りに人垣が出来ている。
 あきらかに、これまでとは違う反応だった。
「あ、あの、今は英語の授業中で」
「やかましい。これより血肉の華の美しさを子供らに教えようと云うのだ。邪魔をするな、若造」
「ひぃぃっ!」
 解剖刀を突きつけられ、尻餅をつくヒロシ教諭。それを見てやんやの歓声を上げる生徒達。
「どうですかな、父兄諸君」
「おお、春王院教授の講義なら、私も」
 父兄からも予想外の声が返る。
「よい心がけだ。では、特別に最新技術による保存方法である、プラスティネイションをご覧に入れよう。これはつまり、生体の組織液を樹脂と置換して……」
 わき返る教室。
 
 いつもと同じ教室、けれど、いつもと違う風景。

 もしかしたら。
 ここなら。
 この学校だったら。
 私は私でいられるかもしれない。
 私がここにいてもいいのかもしれない。
 ここが、私の来るべき場所、なのだろうか。
 だから。
 だけど。
 けれど……。

「実物は見せなくていいぃぃぃ!」

 教卓に広がる血肉……。

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