|目次へ|   |ホームへ|

昼休み


 昼休み。
 それは、僅か三十分足らずの時間。振り返れば、思い出のぎっしり詰まった大切な思い出の場。
けれど、そこで生活する彼ら、彼女らが、その僅かな時間の大切さと深さを感じるのは、遙か未来の話。
 今は、ひたすらその享楽を甘受し続ける。その濃密な時間を、楽しみ、悩み、憧れ、反芻し、明日の時間へとひた走るのだ。

「最近、ゆゆしき噂を耳にする」
 六月の惨劇以来、沈黙を続けていた加賀会長の声が久しぶりに教室に鳴り響いた。
「どうしたんだよ」
 園田仁志が聞き返す。
「どうしたもこうしたもあるか。最近、昼になると麗亜さんの姿が見えなくなる」
「そりゃ、どっかでお昼を食べてるんじゃないの」
「どこで何を食べているというのだ」
「そんなの知らないけどさ」
 仁志のもっともな答えに、加賀会長の顔は憤怒の形相に変わる。
「馬鹿者、痴れ者、愚か者!知らないで済むことかっ。我々、麗亜さんを守る会のメンバーが麗亜さんの一日の行動を把握していなくてどうする」
「どうするって」
「もし、このお昼時に、万が一、麗亜さんの身に危機が迫ったとしたら、どうやって麗亜さんを守り抜くことが出来るというのだ」
「だけど、そんなお昼時までつけ回すのも……」
 運が悪かった。仁志は思った。親友の健二はジャンケンの勝負がどうのと、昼も食べずに教室から消え、碓井寛次は、今日は日が悪いから方違えをすると、弁当を持ってどこかへいってしまった。鈴木昭夫は例によって、人目を忍んで、藤原秋子と弁当を食べにこそこそと教室を抜け出した。そして、残った仁志だけが加賀会長に捕まったのだ。
「だから大馬鹿者だというのだ」
 加賀会長が鋭い目をさらに三角にして、仁志に食ってかかる。
「他の愚かな一般大衆ならともかく、我らは知らねばならぬのだ。麗亜さんがどこを通り、何時登校して、休み時間にどのような行動を取り、昼はどこで何を食べ、何時に下校し、どこに立ち寄り、家にいつ帰り、何時に寝るのか、その全てを把握していなければならない」
「それはちょっと、変質的な気も……」
「うるさい。そんな事を云っているから麗亜さんが」
 そこまで叫んで、加賀会長は自分がなぜこんな事を今更のように口にしたのか思い出した。
「そう、そうなのだ。そんな風に我々が安閑としている間に、忌まわしい噂が流れてきたのだ」
「忌まわしい噂?」
 仁志が反芻する。
 がたん。
 教室の二方で椅子が鳴った。
「忌まわしい」
「噂」
 好奇心に満ちた声がハモる。
 このクラスで一、二を争う野次馬、有賀良枝と夢見想太郎だった。
「何、何、怪談」
 良枝が身を乗り出す。
「違うな、この学校に眠る禁断の伝説だ」
 必要以上の自信を持って夢見氏が云う。
 加賀会長の目の前に、好奇心に目を輝かせて良枝と夢見氏が立つ。仁志はこれ幸いと、二人の背後に移動した。
「で、どっちなんだい?」
 夢見氏が口を開く。
「どちらとは」
「怪談なの、伝説なの」
「心霊現象か、猟奇犯罪か」
「どちらも全く違う!全然違う。しかも、君のところの部員に関わる問題だ」
 加賀会長が夢見氏を指さす。
「部員?」
「オカルト研究会だ」
「ああ、あれ今度『密教研究会』になったから」
「え、密教?アビラウンタラカンタラって奴?」
 良枝が口を挟む。
「あびらうんけんばざらだどばん、だ。大日如来の真言」
「そうそう、美形の僧侶なんかが唱えるやつ」
「いや、美形じゃなくても真言宗や天台宗あたりの坊さんなら、その程度は唱える」
「だめだめ。細身で色白で、薄い唇だけが紅を引いたように怪しく赤い超絶美形の僧侶じゃないと」
 良枝が首を横に振る。
「そんなこと云ったら、空海はどうなるんだよ?」
「空海は……美形だったのよ!」
「んじゃ、最澄は?」
「う、……最澄も美形だったのよ。んでもって、実は二人は密かに互いに惹かれながら、しかし、当時の朝廷の争いの中で引き裂かれ、その愛は憎しみに代わり……あ、これ、使える、次の小説に使える。『密教薔薇迷宮』。うんうん」
「そ、それは、流石に罰が当たるんじゃないか」
「どうして、耽美で素敵な話じゃない」
「いや、やはりまずいのでは……」
「そんなことはどうでもいい!」
 果てしなく脱線していく二人に業を煮やして加賀会長が叫ぶ。
「そんなホモやら坊主やらの話はどうでもいい」
「耽美と云ってよ!」
「密教はどうでもいいものではない!」
 見当はずれの反論を二人が同時に叫ぶ。
「うるさい!黙れ!問題は無名抄なのだ!」
「無名君?」
 良枝の目が、必要以上に見開かれる。
「で、でも、それじゃ、それって、その相手は……」
 良枝がなにやら意味ありげな目で夢見氏をまじまじと見る。
「……ダメね。とても耽美になりそうにない」
 そして、やれやれと頭を振る。
「何なんだよ、それは?」
「いい加減にその話題から離れろっ。いいか、よく聞け。最近、無名抄が事もあろうに麗亜さんと毎日昼時に連れ立ってどこかで一緒に弁当を食べているというのだ」
「ふえぇ。意外なカップル」
 横合いから、姫野貴子が会話に割り込んできた。
「まあ、ノーマルだけど」
 良枝が付け足す。
「ノーマルではない。異常だ、異常事態だ。あ、あの、無名抄ごときが、よ、よ、よりにもよって……」
「なんだ、そんな事か」
 口角泡を飛ばす加賀会長を尻目に、夢見氏は急に興味を失ったように自分の机に戻ろうとする。
「ちょっと待て」
「うるさいな、僕は『空海最後の暗部。失われた四国百八ヵ所の謎を追う』の編纂に忙しいんだ。そんなつまらん事に関わっている暇はない」
「何を無責任な。事はきさまの所の部員がしでかした不祥事だぞ。いいか、部長と云ったら親も同然、部員と云ったら子も同然。保護者である貴様にも部員の監督責任がある。無名抄と麗亜さんがどこで何をしているのか見届ける義務があるのだ」
 敢然と加賀会長が夢見氏の前に立ちふさがる。
「ねえ、ねえ、でもさ、やっぱり無名君と麗亜さんのカップルって、変だよね」
 貴子が良枝の襟をつんつんと引っ張りながら云った。
「そう、ねえ。アブノーマルでも耽美でもないけど、意外っちゃ、意外よね。無名君と麗亜さんってのも、確かにそれ自体怪奇現象ひとつだよね。やっぱり夢見氏が乗り出す事件かも」
 良枝がよく分からない理屈をこねる。
「その通りだ。あの麗亜さんが無名抄などと行動を共にする事自体、超常現象なのだ。もはや科学を超越したオカルト的な出来事だ。まさに、オカルト研究会、いや、密教研究会か。いずれにしても、これは君の領分の事件だ。だから君は我らと行かねばならぬ」
「……それじゃさ、純さんはどうなんだよ」
 夢見氏が突然、二つ向こうの机に、ぐでっと頭を垂らしてぼおっとしている少女を指さす。春王院純さんだった。
「ふゎあ?」
 突然話題を振られた純さんが気のない返事を返す。
「もし、僕が無名君の保護者であるなら、純さんは麗亜さんの保護者じゃないか」
「なんで私が……」
 迷惑そうに純さんは机に突っ伏したまま答える。
「それは、確かに一理ある。遺憾ながら我々守る会以上に、純さんは麗亜さんの理解者だ」
 加賀会長も頷く。
「純さんと麗亜さん、か。学校一の天才少女と校内随一の美少女の淡い恋。うん、これはこれでいいかも」
「それはもういいから!」
 夢見氏が、独り違う世界で納得する良枝を制してから、純さんに向かう。
「いいかい、純さん、僕がこの学園の超常現象を解く義務があるように、君にはこの学園における未知の現象を科学的に解明する義務があるんだ」
「未知の現象、ねえ」
 つまらなそうに純さんは答える。
「ま、もっとも、所詮科学など広範なオカルト世界のごく一部の狭隘な領域でしかないからね。今回のような人の心に絡む微妙な問題には手も足も出ないだろうがね」
「んー」
 純さんが伸びをする。
「なんだか分からないけど、要するに、自分の手に余るから一緒に来て欲しいって事でしょ。毎度のことだけど」
「い、いや、僕は……」
「まあいいわ。行くなら早く行かないと、昼休み終わっちゃうわよ」
 人の心の微妙な部分を見事に突かれて絶句した夢見氏に構わず、純さんはさっさと廊下へ向かう。
 いきなり主導権を取られたまま、夢見氏達は、純さんの後を追って教室を後にした。

「ん、こっちね」
 浜風にねじくれた松の木の向こうに海が見える。
 逍遙学園を含む、御塚堂大学の広大な敷地は、海の見える高台に位置する。
 逍遙学園の裏手の森の中を歩きながら、純さんがつぶやいた。
「いや、僕はこっちだと思うが」
 夢見氏が反対の方角を指さす。
「でも、麗亜、そっちにはいないけど」
「なんで解るんだよ」
「長年一緒にいると相手の行動って結構解るでしょ」
 何でもないように純さんがいう。
「そりゃたしかにそうだ」
「でも、人間の認識能力と推理力って大したものね。付き合いが長いと、相手が今何処にいて、どんな行動を取って、どこで何を食べ、どんな話をして、何を考えているのか、離れていても大体把握できるもの」
「聞いたか、諸君。永きにわたる人間関係は、相手を思いやる心は、これほどまでに絶大な力を持つのだよ。我々など、その人間の可能性の麓にすらたっていない」
 加賀会長が純さんの言葉に大きく頷く。
「我々には、真の愛が足りないのだ。解るか諸君」
「うん、うん。やっぱ愛の力よね」
 良枝が違う方向でうなずく。
「あ、そんな事より、早く行った方がいいわね。キュウリの浅漬け食べて、麦茶注いでるから」
「いや、すばらしい。まさに以心伝心、一心同体。我々も見習わねばならない」
「って、そこまで解るのって、もう超能力なんじゃない」
 仁志が、つい好奇心に負けて聞いてしまう。
「誰もが持ってる能力は超能力とは云わなわいでしょ」
 純さんが当たり前のように答える。
「誰もって……」
 仁志は、良枝と貴子の方を向くと、
「普通、そういうもんなの?」
と、不安そうに聞いた。この学校に来て以来、級友達のあまりに非凡な才能を目の当たりにし続けた仁志は、もしかしたら、今まで人並みと思っていた自分が、実は何もできない劣った人間なのかも知れないと心配になってきたのだ。
 二人に聞いたのは、この中では比較的普通そうだったからだ。
「できない」
「私も」
 そして、普通の中学生である二人は、当然のように、ぶんぶんと首を横に振る。
「なんと、純さんはエスパーだったのかっ」
 夢見氏が叫ぶ。
「なに莫迦なこと云ってるのよ。まあ、それは生活環境にもよるから個体差は有るかも知れないけど」
 純さんはやれやれと頭を振りながら答える。
「犬なんかだとこの距離でも相手の匂いって解るわけでしょ。匂いの知覚は化学反応だから、相手の体から放出された分子は、ここまで流れて来てるって事。で、人間の活動って実際には化学変化にすぎないの。感情の動きもアドレナリンやエンドルフィンの分泌量となって現れる。もっとも、受ける側の神経細胞の励起にも一定の敷居値があるから、化学物質が届いても、それが僅かだと感知できないだけ。精神感応とかそんな怪しげな話じゃないの。もっとも、長年近くにいると、相手に特有な化学物質を神経細胞が覚えて、励起の敷居値が下がるのかもしれないわね。今度時間があったら検証実験してみようかな。あ、それは兎も角、麗亜たち、ご飯食べ終えたみたいね。冷たい麦茶飲み始めた」
 半分独り言のようにつぶやきながら、麗亜さんの姿が見えているかのように、広大な逍遥学園の森を純さんはずんずんと進んで行く。
「純って、すごいねえ」
 感心した声で貴子が云う。
「凄いっていうか、やっぱり超能力なんじゃ……」
 小さく仁志がつぶやく。
「違うわ。やっぱり愛の奇跡よ」
 どうしてもそっちに持っていきたい良枝がうっとりと云う。
「そんなことはどうでも云い。ああ、どうか無事でいてください、麗亜さん」
 加賀会長が真顔で心配する。
「何だ、麗亜くんがどうしたって」
「げっ、ヒロシ」
 良枝が露骨な嫌悪の声を上げる。
 網上院ヒロシ教諭だった。
「この清々しい昼休みに、皆連れだってお散歩かな。で、麗亜君はどこだい」
 本人は爽やかな口調のつもりであったが、その語尾は不自然にひっくり返り、落ち着きなく周囲に視線を散らすその姿は、不審者以外の何者でもなかった。
「教師には関係ない話だ」
 加賀会長がにべなく云う。
「や、参ったなあ。先生は、麗……君たちの事を心配してるだけじゃないか。何でも、最近構内に不審者が現れるって噂があるんだ」
 何とか威厳を取り繕うとヒロシ教諭は、作り笑いを浮かべながら云った。
「大丈夫だよ。だって、ヒロシ先生がここにいるから」
 教諭に向かって、貴子が微笑みかける。
「え、貴子君」
 教諭の作り笑いが、露骨な笑みに変わる。
「先生がここにいるんだから、物陰から盗撮とかされる心配ないもん」
「え?」
 露骨な笑みがそのまま固まる。
「あ、そっか。犯人の身柄拘束しとくのが一番安全か」
 良枝がぽんと手を打つ。
「ふむ、我々が監視していれば、麗亜さんに不埒な振る舞いも出来ない訳だな」
「そうだね」
「なるほど」
「ちょ、ちょっと待てお前たち……」
「あ、いた」
 その言葉に、全員が純さんの視線の先を追う。
 芝の広がる緩やかな斜面だった。目の前にはいくつかの尾根を越えて海が見えている。波打つ傾斜の平らな場所に大きなケヤキが生えていた。周囲にはアオキや椿の茂みが点在している。そのケヤキの根本に麗亜さんと無名君が座っていた。
「おのれ、無名っ」
「あ、先生はゆるさんぞ!」
「静かに!」
 二人を良枝が止める。
「な、なんだ?なぜ止める」
 加賀会長がちょっとたじろいで聞き返す。
「まず確かめないと」
 良枝の目は爛々と輝き、言葉にいつもはない迫力が感じられた。
「あなた、さっき教室で言ったでしょ。麗亜さんが何を考え、何をしているのか知らねばならないって。でも、この距離で二人が何をして、どんな会話をしているのか、あなたに解るの。今、出ていったって、二人がお昼を食べていた、その事実しか分からない。あなた達の云う麗亜さんの行動把握ってそのレベルのものなの?違うよね。あなた達の麗亜さんへの想いって、もっと深いものなんでしょ」
「い、いや……」
 その迫力に加賀会長が押し黙る。
「それにヒロシ、あなたも教師なら、始めから生徒を疑るような態度でいいの。二人の生徒が木の下で座ってお昼を食べていた。その目の前の現象だけで、どうせ、何か嫌らしい想像でもしたんでしょ」
 間髪を置かず、ヒロシ教諭に指を突きつける。
「い、いや、先生は違う。先生は生徒を信じてる」
「不器用で未熟な若者の心の機微を、目の前の場面だけで理解できるの」
「う、それは」
「だから、私たちは知らなくちゃならない。
きちんと真実を確かめないといけないのよ」
「そ、それは確かに一理ある……」
「先生は……」
「その為には、……伏せて!」
 かくして、実は好奇心だけに支配された良枝の言葉に押し切られ、一行は、公園のアベックを覗くおっさん達のように、茂みから茂みへと麗亜さん達の方へ近づいて行った。

「は、話し声が聞こえる」
 妙な緊張感の中、仁志が口を開く。
「静かに。もっと近づかないと」
 良枝が小声で鋭く制する。
「麗亜さんの声だな。だが、無名君の声が聞こえない」
 夢見氏がつぶやく。
「無名などどうでもいい。も、問題は麗亜さんだ!」
 加賀会長が小さく叫ぶ。
「先生は信じているよ」
「だから、静かにってば」
 良枝の目が尋常じゃなく輝いている。
「やれやれ」
 純さんがため息をついた時。

「そこだっ」
 甲高い鋭い叫び声がした。

「気づかれた?」
 良枝が身をすくめる?
「いや、声の方向が違う」
 夢見氏が答える。

「おや、いない」

「ほら、まだ僕らに気づいていない」
「そ、そうみたいね」
 茂みに必死に身を隠しながら良枝が答える。だが、完全に身を隠してしまうと麗亜さんの様子もこちらから覗えない。

「いや、いる。匂いがする」

「ちょ、ちょっと。なんか変じゃないか」
 仁志が最初に異変に気がつく。
「静かにしろ。何が変なのだ」
「これ、麗亜さんの声かな」
「馬鹿者!麗亜さんの声を聞き間違えるはずがあるまい」
 加賀会長が反論する。

「するぞ、するぞ、怯えた匂いが」
 澄んだ声。
 けれど、冬の氷の様な、冷たく透明な響き。

「また、怪談でもしてるのでは?」
 夢見氏が六月の事を思い出して云う。
「そ、そうかも」
 良枝がうなずいた。

「さて、どこに隠れたか」

「やっぱり俺らの事じゃないの?」
 かなり腰の引けた声で仁志が云う。
「でも、ほら。偶然ってあるし」
 そう云う良枝の声も少し震えている。

「ひい、ふう、みい……おや、山羊の子が七つ。ふん、それで隠れてるつもりか」

「前言撤回。やっぱり、気付いてる!」
 良枝が云う。
「それになんか怒っているよ」
 完全に怯えた声で仁志が付け加える。
「馬鹿者。なんで我々が怒られないといかんだ」
 そう云う加賀会長も動揺を隠せない。

「さてさて、随分なことをしてくれたじゃないか」

「ほら、やっぱり怒っているじゃないか」
「いや、それは、しかし」
 加賀会長も完全に逃げ腰だ。
「ううむ、人の恋路をじゃますると馬に蹴られて死んでしまう、とシェークスピアも云ってる」
 夢見氏が訳の分からないことを口走る。
「ここはひとつ」
「どうするの?」
 良枝が聞き返す。
「孫子の兵法書に曰く、三十六計逃げるにしかず、三十八計逃げるが勝ち。逃げよう!」

「逃げても無駄だよ」
 夢見氏の声が聞こえたかのように鋭く麗亜さんが叫ぶ。

「無駄だって……むぐ」
「静かに」
 良枝が貴子の口をふさぐ。
「相手は麗亜さんだよ。怒ってるったて、命まで取るって訳じゃないだろうし」
「どうかしら?」
 純さんが真顔で怖いことを云う。

「おやおや、震えているね。哀れな生け贄の子山羊たちよ。さて、どうしてくれようか」

「どうしよう」
 やっぱり運が悪かった。仁志は昼前に教室から逃げ出さなかったことを後悔した。
「近づいてる、近づいてるよ」
 良枝の好奇心もどこかに消えている。
「し、しかし、我々麗亜さんを守る会としては」
「あんた達はともかく、私は違うんだから」
 良枝が逃げを打つ。
「それを云ったら僕だってオカルト同好会なのだし」
 夢見氏も云う。
「あれ、密教研究会じゃなかったっけ」
 仁志がつい余計なことを聞いてしまう。
「そんな事はどうでもいい!ここは一時撤退を……」

「馬鹿な子たち。逃げても無駄といっておる」

「も、もう駄目だ」
 何がどう駄目なのかわからないままに夢見氏が叫ぶ。
「謝ろう、謝っちゃおう」
「そうだよ、それが一番だ」
 良枝の言葉に仁志が頷く。
「いや、やっぱり駄目だと思う」
 夢見氏の声が情けなく震える。

「おやおや、あれ程、わたしを愚弄して、謝ればすむと思っているのかい」

「ほ、ほら、やっぱり駄目だろ」
 震えながらも、胸を張る。
「なに威張ってるのよ」
 良枝も震えながら言い返す。

「さあて、そろそろ終わりにしよう。ねえ、おまえたち。一瞬で肉塊になるのと、苦しんで苦しんで死んで行くのとどちらを選ぶ」

 どこか歓喜に満ちた声。

「ど、どっちにするべきだろうか」
「何馬鹿なこと云ってるの。逃げるのよ」
「待て、麗亜さんを守る会たるもの、ここで逃げては……」
「って、僕はやっぱり逃げたいなぁ」
「もう、逃げるぅぅぅ」
 貴子が立ちがある。
 茂みが揺れる。
 振り返る夢見氏。
 草の間から伸びる、白い腕。
 出遅れる加賀会長が、腰を浮かせる。
 その足首を細い指がしっかりと掴む。
 加賀会長の絶叫。
 夢見氏が思わず良枝にしがみつく。
 反射的に夢見氏を突き飛ばす良枝。
 突き飛ばされた夢見氏がヒロシ教諭にぶつかって、仁志ともども頭から隣の藪に突っ込む。
 腰をぬかしてその場にへたり込む貴子。

「あれ、純。何してるの」
 
 そして、明るい麗亜さんの声。

「あ、ちょうどいい。ねえ、みんなも聞いって。私のお話」

 純さんが額を押さえて、かるく頭を横に振った。

 昼休み。
 それは、僅か三十分足らずの時間。振り返れば、思い出のぎっしり詰まった大切な思い出の場。
「ねえ、今日は何のお話ししようか」
 明るい声が教室にこだまする。
「あ、あの、ええと」
 その声に引きずられるように、小柄な男子生徒が美しい女生徒の後を追って教室を後にする。麗亜さんと無名君だ。
「じゃ、もうすぐ七夕だし、織り姫と彦星のお話だね」
「なんだ、それならよかった。昨日の話はおっかなかったから」
 ほっとしたように無名君が答える。
「ねえ、いいの?」
 その姿を見て、仁志が加賀会長に尋ねる。
 それに答えず、加賀会長は深くため息をつく。
「貴様、『織り姫と彦星』を聞く勇気があるか」
「えっと、それは」
 仁志は思い出した。
 あの日、清々しい晴天の下、心地よい潮風の中、爽やかな新緑の丘の上で聞いた物語を。
「おまえは、あの『七匹の子ヤギ』をもう一度聞く度胸はあるのか」
 恐慌状態から覚めて、麗亜さんが話していたのが、怪談ではなく民話だったのだと聞かされた。七匹の子ヤギ。麗亜さんが無名君に聞かせていたのは、子供の頃、繰り返し聞いた懐かしい昔話だったのだ。
 泰山鳴動して子ヤギ七匹か、と笑いながら続きを聞いた。
 そして、数分後、意識は消えた。
 恐怖故に。
 気が付いた時、そこは保健室だった。
「もう一度、あの話を聞いて、自分が正気でいる自信はあるのか」
「あ、いや、ええと」
 仁志が、教室を出る麗亜さんと無名君を見ながら曖昧な返事をする。
 その視線を、加賀会長が追う。
 今日もまた、無名君は麗亜さんとお昼を食べに行く。そして、『今日のお話も、おっかなかったよ』と教室に帰ってくるだろう。
 おっかない?
 そういいながら、明日もまた、麗亜さんとお昼を食べに行く無名君。

「無名抄、侮りがたし」

 加賀会長が小さく呟いた。
おしまい
|目次へ|   |ホームへ|

このページの転載、複製は禁止します
Copyright(C) Yuichi Furuya 2008
inserted by FC2 system